場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第六章 遠ざかる故郷〉1
室生犀星「抒情小曲集」/太宰治『津軽』
前田速夫
故郷喪失者の群れ

近代から現代にかけて、私たちは民俗の記憶を喪失し、生が衰弱してしまったと言いましたが、それは歴史の必然であったことが、問題を複雑にしています。過去に帰ればいいというものではないし、帰れるわけもない。そこが厄介なところで、本連載はそうしたことからも目を逸らさないつもりです。近代人に特有の最初の関門は、なんといっても故郷喪失でしょう。
《ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや》
有名な『抒情小曲集』(新潮文庫『室生犀星詩集』所収)の一節は、東京で食い詰め、金沢に舞い戻り、そこにも居つけなくて、再び東京へ逃げるという、犀星若き日の彷徨のなかから生まれました。
明治このかた、首都東京への人口流出はやみませんでした。漱石の『三四郎』や森鷗外の『青年』のように、立身出世を願って青雲の志に燃えて上京する若者もいれば、石川啄木のように郷里に入れられず、やむなく上京する若者もいました。東京に行けば、ともかくも職にありつけたからです。ことに文士と呼ばれる人間のほとんどが地方出身者で占められていたのは、作品を発表し、文壇で注目されるには、ほかに道がなかったからでしょう。
つい最近、私は難波功士著『人はなぜ〈上京〉するのか』(日本経済新聞社)という新書判の本を古書店で見つけ、題名に惹かれて買い求めたのですが、これが面白かった。戦前は上京、青雲編、上京、失意編の二つに、戦後は上京、団塊編、上京、業界編、上京、頓挫編の三つに分類し、それぞれ著名な人物の例などを挙げて、上京の動機や上京してからの現実を追跡していて、たとえば関東大震災後の東京をレポートした夢野久作の『東京人の堕落時代』からは、以下の節を引いています。
《大正十二年の夏まで、日本を背負って立つ意気を示しているか
のように見えた江戸っ子の現在の、
て、これに取って代わった新東京人の風俗の
よ。その武威に、その文化に、東洋の新興民族として、全世界の目
を
剥がされてしまったのであった。》
《東京は広くなるばかり。人間は
り。この三つの「ばかり」のために東京市民がどれ位神経過敏にな
るかは、実際に乗って見た人でなければわからぬ。》
第二次大戦後の東京からは、以下の二つを孫引きしましょう。
《終戦から十年過ぎている。その間、東京を歌った歌はずいぶん
と聞いた。ほとんどの歌が、東京は夢の都であり、パラダイスであ
ると云っている。明るく、晴れやかで、洒落て、幸福感に満ち、風
さえ歌をくちずさむ、と歌う。…終戦から十年目の年に上京したぼ
くは、大学生活のためであるから、いくらか青雲の志があってもい
いはずなのだが、そういった気持ちはさらさらなく、ただただ東京
という永久に解明不能の不思議の国にいることが、自分の感性に合
い、将来にも繋がるだろうと思っていただけである。ぼくにとっ
て、東京は、あくまで架空であり、今もそうである。》(阿久悠『
歌のなかに東京がある』1998年3月号「東京人」)
《このころの陽水ファン(僕のまわりで)を見てみると、地方か
ら東京の大学にきた男たちに多い。日本各地の秀才が都会へでてき
て下宿やアパート暮らしをしながら大学へ通う。と、そこには東京
モンの内部進学者がいて、幼稚舎や中学や高校からのグループが形
成されている。…そういう同級生たちの思い、都会への反発、田舎
にいる両親のこと、それを陽水が歌っていたのである。だから陽水
ファンは多かった。ところが僕のまわりにはかぐや姫のファンはほ
とんどいない。詞やアレンジが歌謡曲っぽいからフォークとは思え
ない、という同級生もいた。…どちらにしても郷里を離れて暮らす
孤独感や疎外感は、東京出身の学生にはあまり縁がなかった。…そ
してこれと反転するように、彼らはユーミンの世界を理解できな
かったようだ。》(平野肇『僕の音楽物語』祥伝社、2011年)
そして、一九八〇年代生まれの、ゼロ年代世代たちの上京。派遣会社を転々とし、ネットの掲示板に自分の居場所を求めた加藤
蕩児の帰宅

話が横に逸れましたが、本章のテーマはこうして遠ざかってしまった故郷が、当人にどう思われていたかです。太宰治の『津軽』(新潮文庫)から見ていくと、これは、ジャンルとしては随筆・紀行文に入ります。
ある年の五月中旬、三十代半ばの文筆家の津島修治(太宰治の本名)は三週間かけて故郷・津軽を旅する。生まれてから二十年も暮らしながら、津軽の中心部しか知らなかったので、出版社から仕事を与えられたのを機会に、自分の見知らぬ周縁を見ておこうと思ったのです。「津軽の津島のオズカス」は、純粋の津軽人を捜す旅の手順として、金木町の生家を拠点にしながら、津軽半島の東海岸と西海岸を一周します。
序編の冒頭で、「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を
《「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちっとも信用できません」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩
三十八、長塚
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそ
ろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん
大事で」
「そうして、苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少し
は、わかっている
「言うと、気障になる」と自分で断っていますが、これだけで十分キザですね。作者はこの旅を生家のある金木からではなく、海岸べりの蟹田から始めました。知り合いのSさんの饗応ぶりは次のようなものです。
《「おい、東京のお客さんを連れて来たぞ。とうとう連れて来た
ぞ。これが、そのれいの太宰って人なんだ。
く出て来て拝んだらよかろう。ついでに、酒だ。いや、酒はもう飲
んじゃったんだ。リンゴ酒を持って来い。なんだ、一升しか無いの
か。少い! もう二升買って来い。待て。その縁側にかけてある
ら、むしらなくちゃ駄目なものなんだ。待て、そんな手つきじゃい
けない、僕がやる。干鱈をたたくには、こんな具合に、こんな具合
に、あ、痛え、まあ、こんな具合だ。おい、醤油を持って来い。干
鱈には醤油をつけなくちゃダメだ。コップが一つ、いや二つ足りな
い。早く持って来い、待て、この茶飲茶碗でもいいか。さあ、乾
盃、乾盃。おうい、もう二升買って来い、待て、坊やを連れて来
い。小説家になれるかどうか、太宰に見てもらうんだ。どうです、
この頭の形は、こんなのを、鉢がひらいているというんでしょう。
あなたの頭の形に似ていると思うんですがね。しめたものです。お
い、坊やをあっちへ連れて行け。うるさくてかなわない。お客さん
の前に、こんな汚い子を連れて来るなんて、失敬じゃないか。成金
趣味だぞ。早くリンゴ酒を、もう二升。お客さんが逃げてしまう
じゃないか。待て、お前はここにいてサァヴィスをしろ。さあ、み
んなにお酌。リンゴ酒は隣りのおばさんに頼んで買って来てもら
え。おばさんは、砂糖をほしがっていたから少しわけてやれ。待
て、おばさんにやっっちゃいかん、東京のお客さんに、うちの砂糖
全部お土産に差し上げろ。いいか、忘れちゃいけないよ。全部、差
し上げろ。新聞紙で包んでそれから油紙で包んで
上げろ。子供を泣かせちゃ、いかん。失礼じゃないか。成金趣味だ
ぞ。貴族ってのはそんなものじゃないんだ。待て。砂糖はお客さん
がお帰りの時でいいんだってば。音楽、音楽。レコードをはじめ
ろ。シューベルト、ショパン、バッハ、なんでもいい。音楽を始め
ろ。待て。なんだ、それは、バッハか。やめろ。うるさくてかなわ
ん。話も何も出来やしない。もっと静かなレコードを掛けろ、待
て、食うものが無くなった。アンコーのフライを作れ。ソースがわ
が家の自慢と来ている。果してお客さんのお気に召すかどうか、待
て、アンコーのフライとそれから卵味噌のカヤキを差し上げろ。こ
れは津軽で無ければ食えないものだ。そうだ卵味噌だ。卵味噌に限
る。卵味噌だ。卵味噌だ。」》
この「疾風
ついで外ケ浜に沿って竜飛岬まで行き、竜飛で止まった翌朝、「私」は寝床の中で、童女の歌う
最後は西海岸の小泊。幼少時に育ててくれた子守りの越野たけと再会します。桜の咲く小学校の運動会場の掛小屋で三十年ぶりに会った「私」を、たけは校庭の裏庭の龍神様に誘い、それまで無口だったのが、突然
《「まさかと思った。まさか、来てくれるとは思わなかった。小
屋から出てお前の顔を見ても、わからなかった。修治だ、と言われ
て、あれ、と思ったら、それから、口がきけなくなった。運動会も
何も見えなくなった。三十年ちかく、たけはお前に逢いたくて、逢
えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮していたのを、こ
んなにちゃんと大人になって、たけを見たくて、はるばると小泊ま
でたずねて来てくれたかと思うと、ありがたいのだか、うれしいの
だか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいじゃ、まあ、よ
く来たなあ、お前の家に奉公に行った時には、お前は、ぱたぱた歩
いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ご
はんの時には
でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに
の顔をとっくと見ながら一
金木へも、たまに行ったが、金木のまちを歩きながら、もしやお前
がその辺に遊んでいないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとり
ひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ」と一語、一語、言うたび
ごとに、手にしている桜の小枝の花を夢中で、むしり取っては捨
て、むしり取っては捨てている。
「子供は?」とうとうその小枝もへし折って捨て、
てモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人」
私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかって、ひとりだ、と答え
た。
「男? 女?」
「女だ」
「いくつ?」》
次から次と矢継ぎ早に質問をする無遠慮な愛情表現に接して、「私」は「たけ」に似ているのだと思い、兄弟中でひとり、この哀しい育ての親の影響を受けて、粗野でがらっぱちなわが身の育ちの本質をはっきり知る。そして、故郷の忘れ得ぬ人たちの中に「純粋の津軽人」を発見して、ふるさとに別れを告げます。
ラストの一行は、「私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬」。私はこのときすでに、作者は自分から「グッドバイ」することになる己の運命を予感していたように思えてなりません。
余談ですが、編集者時代、筆者はロシア文学者でプーシキンやチェーホフの研究で知られる故池田健太郎氏と、旅の途中でこのたけさんを小泊に訪ねたことがありました。太宰がいかに可愛かったか熱心に語ってくれたのですが、通訳してくれる地元の人がいなかったら、半分も聞き取れなかったでしょう。
太宰は自然描写の極端に少ない作家です。この作家の眼は、たえず自分の内側に向けられていたからです。その意味でこの「津軽」は、「富嶽百景」などと共に、太宰にあっては例外的な作品ですが、それは「新風土記叢書」の一冊として書かれた紀行文学であるという外的な事情によるだけではありません。言ってみれば、それは秩序と制度からなる人工的な文化の中心、つまり都会から遁走して、反文化的な周縁世界の自然の中へと自己を解放する行為だったのでしょう。けれども、津軽という「僻陬」の地の混沌と野性が、その後の彼を蘇生させたかといえば、結局のところ、決してそうではなかったことを、私たちはよく承知しています。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。