場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
インタールード1 地勢の囁き
前田速夫
ここで中休みです。わが国の近代から現代にかけて、場所がどう扱われてきたかを諸名作のうちに探り、私たちが失いかけている記憶をよみがえらそうとする本連載は、各駅停車の列車による旅のようなもので、読者の皆さんは窓外の風景を眺めながら名物の駅弁をつまむ気持ちで気軽に読んでもらえればと願っています。
じつを言うと、筆者は本連載の古典文学版を、今はない「国文学 解釈と教材の研究」という雑誌に連載し、それをもとに『古典遊歴 見失われた
窟―籠りと再生(『古事記』黄泉国訪問)、野―禁じられた愛(『常陸国風土記』)、泉―入水する女(『万葉集』『大和物語』)、渚―時の岸辺(『土左日記』)、道―好色と流離(『伊勢物語』東下り)、川―荒ましき瀬音(『源氏物語』宇治十帖)、島―辺土の流人(『平家物語』『百合若大臣』)、栖―脱俗と風狂(『方丈記』『徒然草』『狂雲集』)、坂―境界とカオス(『蝉丸』)、潟―殺生禁断地獄(『善知鳥』)、座―乱世のエア・ポケット(『水無瀬三吟百韻』『筑紫道記』)、門―遍歴と蘇生(『しんとく丸』)、辻―出遭いの場所(『物くさ太郎』『月見座頭』)、廓―非・場の論理(『好色一代男』『西鶴諸国はなし』)、橋―道行の時空(『曾根崎心中』)、堀―江戸の暗黒水系(『東海道四谷怪談』)。
水辺(川、湖、海辺)や道(峠、路地)、栖(部屋)についてはすでに述べましたが、ほかにもすぐに思い浮かぶのは、次のような例です。
坂――森鷗外『雁』、円地文子『女坂』、山本周五郎『ながい
坂』、小島信夫『暮坂』
辻――古井由吉『辻』
崖――広津和郎『崖』、嘉村礒多『崖の下』、梅崎春生『幻化』
広場――宮澤賢治『ポラーノの広場』、堀田善衛『広場の孤独』
川――森鷗外『高瀬舟』、島崎藤村『千曲川のスケッチ』、永井荷
風『すみだ川』、本庄陸男『石狩川』、井伏鱒二『川』、三
浦哲郎『忍ぶ川』、深沢七郎『笛吹川』、福永武彦『忘却の
河』、高井有一『北の河』、宮本輝『泥の河』『蛍川』、安
岡章太郎『鏡川』、宮尾登美子『仁淀川』
島――小島信夫『島』、島尾敏雄『島へ』、福永武彦『死の島』、
小川国夫『アポロンの島』、村田喜代子『姉の島』
橋――泉鏡花『日本橋』、長谷川時雨『同』、谷崎潤一郎『夢の浮
橋』、住井すゑ『橋のない川』、堀田善衛『橋上幻像』、藤
沢周平『橋ものがたり』
門――夏目漱石『門』、芥川龍之介『羅生門』、島崎藤村『東方の
門』、高橋和巳『邪宗門』
壁――安部公房『壁』、井上靖『氷壁』、養老孟司『バカの壁』
(小説ではありませんが)
家――島崎藤村『家』、山崎豊子『女系家族』、萩原葉子『〇草の
家』、古井由吉『女たちの家』、柳美里『フルハウス』『家
族ゲーム』、佐伯一麦『鉄塔家族』『還れぬ家』、川上未映
子『黄色い家』
宿――井伏鱒二『へんろう宿』、水上滝太郎『大阪の宿』、武田麟
太郎『日本三文オペラ』、阿部知二『冬の宿』
村――長塚節『土』、真山青果『南小泉村』、牧野信一『鬼涙
村』、井伏鱒二『多甚古村』、中野重治『村の家』、堀辰雄
『美しい村』、石川達三『日蔭の村』
街――梶井基次郎『城のある町にて』、織田作之助『夫婦善哉』、
佐藤春夫『美しい町』、伊藤整『幽鬼の街』、武田麟太郎
『銀座八丁』、福永武彦『廃市』、山本周五郎『季節のない
街』、吉行淳之介『原色の街』、ねじめ正一『高円寺純情商
店街』
ヒロシマ・ナガサキ――原民喜『夏の花』、井伏鱒二『黒い雨』、
福永武彦『死の島』、小田実『HIROSHIMA』、竹西寛子
『管弦祭』、大庭みな子『浦島草』、林京子『祭りの場』
フクシマ――川上弘美『神様2001』、高橋源一郎『恋する原
発』、いとうせいこう『想像ラジオ』、辺見庸『青い花』、
玄侑宗久『光の山』、津島佑子『ヤマネコ・ドーム』、多和
田葉子『雲をつかむ話』
沖縄――大城立裕『カクテル・パーティ』、東峰夫『オキナワの
少年』、又吉栄喜『豚の報い』、目取真俊『水滴』
基地――村上龍『限りなく透明に近いブルー』、山田詠美『ベッド
タイムアイズ』、田中小実昌『バンプダンプ』
坂や辻や広場などは自然の地形。橋や門などは人工の施設。路地や広場などは人の集まる場所、家、村、町などは集合体(コミュニティ)とさまざまですが、それぞれのトポスは他とは明確に区切られた個別の領域で、古典文学版で検証したごとく、その場所ならではの際立った特徴を備えていることに、さほど変わりはありません。
しかし、時代が異なれば、そこに登場する人物は変わり、当然のことに、そこで生じる物語は変化します。ことに明治以後、西欧に追いつき追い越そうと競った、近代化にともなう変化の激しさは格別で、以下の章では、その主だったものをさらに詳しく見ていきますが、ここではスペースの都合でそこからは零れるものだけ、あらかじめ拾ってみました。
ヒロシマ・ナガサキ、フクシマ、沖縄、基地といった、過去に例のない悲惨な経験と、現代に特有の複雑な問題をかかえた地域については、筆者の手に余りますので、ここでは「広場」「橋」の堀田善衛と、「辻」の古井由吉についてのみ付言しましょう。
堀田善衛は、『広場の孤独』『鬼無鬼島』『鶴のいた庭』と、作品の題名を見ただけでも、トポスに関心のある作家であることが理解できます。堀田は、武田泰淳と同じく、上海で日本の敗戦を知り、祖国を喪失したとの深刻な動揺を経験しました。自分の足場を失ったとの思いが、よけいトポスの重要さに眼を開かせたのでしょう。
『広場の孤独』は、朝鮮戦争勃発前夜、テレックスの翻訳係に採用された男が、職場の新聞記者たちに囲まれながら、再度の世界大戦の危機を感じて、国際的な問題にどうコミットすべきか苦悩する様相が、題名に籠められていますし、『橋上幻像』も、ニューギニア戦線の人肉食い、ナチのユダヤ人虐殺、そして目の前のヴェトナム戦争の脱走兵の話をとりあげて、三者が交叉する地点をY字形の橋と捉えて、その三方の行方に目をこらします。しかしながら、ここでは残念ながら、「広場」も「橋」も比喩でしかなく、トポスとしての積極的な役割が十分に発揮されていません。テーマの設定も、いかにも戦後の良心的な知識人が扱いそうな問題を、その範囲のこととして扱うだけで、どこか上滑りしている。
そこへいくと、登場した当時は「内向の世代」と否定的に括られた古井由吉は、よほど本格的です。トポスに関心があり、真にトポスの意義をこころえている作家として、おそらく現代では、古井由吉が随一でしょう。『杳子・妻隠』の『妻隠』、『聖・栖』の『栖』はもとより、初期の『円陣を囲む女たち』『男たちの円居』からしてそれは明らかで、私ははじめて読んだとき、「かごめかごめ」の歌を連想して、ぞくっとしたことを憶えています。「杳子」と出遭う谷底や『聖』の佐枝と出逢う河原、『街道の際』『谷』『中山坂』などの題名を見るだけでも、このことは了解できます。ちなみに、『辻』では、次のように精妙に地勢の囁きをとらえていて、それは見事なものです。
《風の中を、風に膨らんだ大男が行く。風の合間に、辻にさしか
かる。そこで立ち停まり、どちらへ行ってもよいようなものを、目
的を知っているかのように道を選ぶのは、前から惹かれるか、後か
ら押し出されるのか、その感じ分けもつかず、徒労感に絶えず、風
のまた吹き出したのにまかせて足を踏み出す。こうして行くうちに
やがてひとつの辻に出会って、辻そのものが生涯の道しるべとな
り、徒労感は去り、足取りは定まるのではないか、と期待を先へ送
る。しかしまた、その辻はじつはとうに知らずに通り越していて、
取り返しがつかず、投げやりな踏み出しは背後へ置き残される弁明
の粘りつきであり、そのしるしに三歩目にはおのずと決然として、
自身にも他人にも容赦のない大股の歩みになっているのではないか
と疑う。》
前田愛は「空間のテクスト テクストの空間」(『都市空間のなかの文学』序)で、「ベクトル場として想定されるテクストの「内空間」は、それが時間とともに流動し、変容して行くかぎりで、むしろ私たちの身体を原点として構造化され、身体の位置の移動によって変化して行く、
私たちは、これまで文学作品を読むのに、作中人物の心理や行動とか、プロットの展開とかに目を奪われがちで、「作中人物の生の地平を開示し、限定する枠組として作用しつづける明視された表象空間」やテクストの「内空間」の意義を軽視してこなかったでしょうか。けれども、本連載ではこれこそが、私たちが見失ってしまった過去の歴史や記憶、ひいては衰弱し、空洞化してしまった自身の生を取り戻す鍵であるとして、以下さまざまな今日的なトポスを例にさらに考察を深めてまいります。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。