場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

インタールード3 土俗幻想
前田速夫


 東京への一極集中が、地方の衰微、空洞化を招いたことを否定できません。その総仕上げが「平成の大合併」で、それまでかろうじて残っていた由緒ある歴史地名は、ブルドーザーにかけられたみたいに、一斉に消えてしまいました。これは、地名の消滅のみを意味しません。地方の人と暮らしと文化が、根こそぎ壊滅させられてしまったのです。
 けれども、こういう時勢であったからこそ、かえって土俗に根ざした作品から名作が生まれる。それが、文学の恵みであり、文学ならではの力です。代表的なのは『楢山節考』『笛吹川』『甲州子守唄』の深沢七郎ですが、ここでは現代の作家が今日的な視点から創出した、特異で斬新な文学空間を見てみましょう。

 吉田知子『お供え』(講談社文芸文庫)……通りがかりの誰かが早朝、家の前に花を置き、以後そのことが重なります。そのうち家の東側の空き地で、妙な人影が増えてきて、庭先に何かが投げ込まれる。よく見ると、紙幣に硬貨を包んだものです。やがて、ある人から、風呂に入りなさいと言われ、〈私〉は新しい下着と新しい服を着て化粧をします。〈私〉を拝む人もいれば、石をぶつけようとする人もいる。つまり、〈私〉はいつの間にか何やらあやしげな新興宗教の教祖に仕立てられてしまっていたのでした。日常の裂け目から覗く非日常の空間。それをしごく当たり前のこととして書き進めていく筆致が魅力です。

 村田喜代子『白い山』(文藝春秋)……北九州の団地に夫と小学生の娘と暮らす〈私〉は、季節はずれのチャンチャンコを着て団地中の空き地に花の種を撒く不思議な老婆を目にします。その老婆が引っ越したあと、団地の空き地という空き地にコスモスの花が咲き乱れる。それがきっかけで、〈私〉は自分がこれまでに出遭った印象深い老婆をさまざま想起する。高台の町に住んでいた頃、同じ町内で見かけた「つ」の字のようにひどく腰の曲がった老婆。五十過ぎから「もうすぐ死ぬ」と言い続けて九十でなくなった祖母……。ある日、家族と白く輝く山をドライブすると、行く手にそれらさまざまな老婆が現われて、緩慢な動きで車の前にたちふさがります。この作家は、老婆を描くと天下一品。いつのまにか、懐かしいような怖いような別世界に引き込まれてしまいます。

 笙野頼子『二百回忌』(新潮文庫)……郷里の家を出てから十年。親とも絶縁した〈私〉に本家から先祖の二百回忌の報せが届きます。二百回忌とは途方もありませんが、〈私〉は死んだ母方の祖母に会おうと、しきたり通りに赤の喪服を着て参列する。死者と生者がごった返すなか、ありとあらゆる出鱈目が繰り広げられます。若当主の姉は鳥にされてしまうし、しまいには巨大な蒲鉾の壁とさつま揚げが出てくる。〈私〉をヤヨイと呼んでからんでくる男を、〈私〉は蒲鉾のなかに叩き込み、部屋中を歩き廻って……。この作者特有の奇怪で奔放なイメージの氾濫と、ブラックユーモア。土着的な習俗を意地悪く突き放しつつも、それを愉しんでいて、のちに長編『太陽の巫女』『水晶内制度』『萌神分魂譜』『金毘羅』『海底八幡宮』と続く懐の深さを、早くも予感させます。

 川上弘美『蛇を踏む』(文春文庫)……藪で踏んだ蛇が、主人公ヒワ子の母と称する女に変身して、家で夕飯を作って、彼女を待っています。蛇はしきりにヒワ子を自分の暖かな世界に誘い込もうとし、ヒワ子も蛇である母の快適さに依存するようにもなりますが、なかなか本物の蛇にはなれません。ついに、蛇とヒワ子は互いの首を絞めあい、何百年も繰り返されたようなその争いに決着をつけようとしたその時、天井から濁流が襲って部屋もろとも押し流されます。民話の「蛇女房」が下敷きなのは明らかですが、蛇が何のメタファーなのか不明なまま描いているところが新鮮。

 多和田葉子『犬婿入り』(講談社文庫)……多摩川べりの団地で学習塾の教師をするみつ子は、生徒たちに民話の「犬婿入り」をきわどく作り替えた話をして人気があります。ある日、きれい好きで犬のような習性を持った若い男、飯沼太郎が闖入して、妙な同棲生活が始まります。みつ子はそのすべてを受け入れていきますが、やがて、その男は、塾の生徒扶希子の母親の夫松原の元部下で、ホモセクシャルの関係にあったことが判明、太郎は松原とどこかへ蒸発してしまい、みつ子も扶希子を連れて出奔してしまう。本人も周囲も、すべてが曖昧で中途半端な現代を、民俗の伝承とは無縁に捉え返してみせた野心作。

 目取真俊『水滴』(文藝春秋)……ある日、徳正の右足が冬瓜のように突然膨れだします。足先から滴り落ちる水には不思議な効能があり、従兄弟の清裕は、奇跡の水と宣伝して大儲けをする。徳正にはその水の正体がわかっていました。夜な夜な仲間だった兵隊の亡霊が、徳正の足先の水を飲みに現れるようになっていたからです。彼には友人の石嶺を砲撃される壕に置き去りにして、末期の水を自分が飲んでしまった過去がありました。石嶺の亡霊から「ありがとう、やっと渇きがとれたよ」と言われて足は治り、同時に奇跡の水は腐った水に替わってしまいます。戦後五十年を経てなお、罪の意識から自由になれず、うしろめたさを抱えた人間の苦しみが、沖縄ならではの風土と歴史を背景に語られます。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。