場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈第十三章 家族のかたち〉2
 保坂和志『カンバセイション・ピース』
前田速夫


  カンバセイション・ピース 

 中上健次や津島佑子、佐伯一麦など、少数の例外はありますが、新世代の作家の作品で家族が重要なテーマになることは、まずありません。吉本ばなながそうでしたが、たとえば、村上春樹の小説に、父親とか母親とかが出てきますか。考えられないですよね。それは、島田雅彦や高橋源一郎にしても、江国香織や角田光代にしても、そうです。家族をテーマにすることがあっても、糸井重里の『家族解散』や本間洋平の『家族ゲーム』、あるいは柳美里の『フルハウス』のように、否定的にか戯画的にか描かれていないのが普通です。とにかく、今日の日本の現実は、極端に言うと、ここまで来てしまっている。そのことは、よく承知しておく必要があります。
 ところが、保坂和志の『カンバセイション・ピース』(新潮文庫)は、そうした現状とは真逆に、ある一家のもとに集まった、地縁とも血縁とも無関係なグループの変哲もない日常が、延々と綴られていて、いったいこれは何を意味するのかと、私はかえって関心をそそられました。語り手の〈私〉は、高志という名前ですが、作者の分身と考えていいでしょう。

  《伯母が死んで私と妻の二人が世田谷のこの家に住むようになっ
 たのが去年の春のことで、その秋に友達が三人でやっている会社を
 ここに移し、今年の四月からは妻の(めい)のゆかりも住むようになった
 ので、勤めに出ている妻をぬかして昼間は五人がこの家にいること
 になったのだけれど、私の知っているこの家の住人の数と比べたら
 まだずっと少ない。
  もともとここには伯父伯母と四人の子どもの六人がいて、そこに
 私が小学校にあがる前の二年間、昭和三十五年から三十七年にかけ
 て私の家族が同居していた。船員をしていた父が半年から場合に
 よっては一年ちかく家を空けるのを不用心だと思った祖父母や伯父
 夫婦の判断でそうすることになって、母と私と生れたばかりの弟を
 合わせて九人というのが、私の記憶の中にある自然なこの家の人数
 で、子どもの頃に住んだ家というのは無条件に建物とそこに住む人
 間の関係の基準になる。》

 おまけに、というより、一家の中心にすえられているのが三匹の猫で、ここではまるで家屋(家ではなく)が主人公のようなのです。タイトルはヴィスコンティの映画『家族の肖像』中で老教授が蒐集していた上流階級の家族の一家団欒を描いた絵画、Conversation Piece から取られたということのようですが、まさに会話の断片の連続から成立していて、登場人物の誰も彼もが、まあよく喋ること喋ること。
 私たちが日常で交わしている会話がそうであるように、どれも取り留めないことおびただしいのですが、登場するのが一風変わった人間ばかりなので、退屈しません。たとえば、この高志の家にせっかちな奈緒子姉が現われたときのこと。

  《「車入れようとしたら入り口のところがゴチャゴチャしてたか
 ら、どけるの高志に手伝ってもらおうと思って入ってきたら、そこ
 に浩介君がいて、『どうも、いらっしゃい』って言うのよ。
  わたしはすっかり高志だと思っているから、『何を他人行儀なこ
 と言ってんの』って言って、そっちまで行って『早く入り口の鉢ど
 けるの手伝ってよ』って、(そで)ひっぱって、『いつ茶髪にしたの?』
 って言って髪の毛つまんで、眼鏡もかけてるから『老眼はまだ早い
 よ』って言ったら――、
  鈴木じゃなくて佐藤じゃなくて、何ていったっけ? 名字」
  「佐藤でいいんだよ」
  「あ、そうか」と、奈緒子姉はそこでまた一笑いした。「『内田
 さんじゃなくて佐藤です』って言うから、びっくりしてよく顔を見
 たら、高志じゃないのよ」
  「全然似てねえじゃん」と私は言った。
  「似てっこないわよ、全然。でもしょうがないじゃない。高志だ
 と思い込んでるんだから」
  いくら思い込んでいても浩介と私は全然似ていないんだから間違
 えようがないのだが、それを堂々と間違えられるのが奈緒子姉で、
 奈緒子姉は中華料理屋に入って、「ラーメン」と言ったつもりで
 チャーハンを注文して、「はい、チャーハン」と置かれて、「アッ
 !」と声を上げたのだが、言い間違いに気づいたのではなくて、
 「すごいラーメンだと思ってびっくりした」なんて、そういう勘違
 いをする。》

 横浜ベイスターズの大ファンである高志が、ライトスタンドで仲間と応援するシーンは、こうです。

  《大峯はジンクスも何も関係なく、「ドライ」でも「ヱビス」で
 も来たビールを飲んでいて、一杯目の空になった紙コップの底をく
 りぬいてメガホンにして、
  「オーイ、中根ェ。今年はおまえが一番頑張ってるぞ。おれが
 オーナーだったら、おまえにソープの年間招待券やるぞ。ヘッヘー
 ツ」
  と、応援とも野次ともつかない声を出していて、前川は前川で話
 がつづいていた。
  「でも、田代の指示はズバズバ当たるんだよ。一巡目は、コーチ
 スボックスからこうやって腕組んで、ピッチャーとバッターをじ
 いっとにらんで黙ってんだけど、二巡目からバンバン指示が飛んで
 きて、田代の指示どおりに打つヤツはちゃんと打てるの。で、言う
 とおりにしなかったヤツは、コーチんところからズッズッズッて歩
 いてきて、顔面パンチ。グーだぜ、それも。パーじゃなくてグーな
 んだぜ」
  チェンジになり中日が守りにつく頃には大峯のビールも三杯目に
 なって、野次もいよいよ本格的になってきた。
  「おい、井上ェ! こんなうしろに下がって守ってんじゃねえ
 ぞ。自分とこのピッチャーが、そんなに信用できねえのかァ!もっ
 と前行ってやれ、前へ! ヘッヘーツ」
  「関川ァ! うしろ振り返って何見てんだよォ。スコアボードに
 自分の名前が出てるのが、そんなにうれしいかァおまえは。よそ見
 してるヒマがあったら、(あご)のまだら(ひげ)()って出直して来い。髭
 剃ってよぉ! ヘッヘーツ」
  大峯の野次は三十年前の草野球のように長い。長くて()()がなく
 て、最後に「ヘッヘーツ」がつくのだが、「ヘッヘーツ」と言って
 いるのは本人も気がついてないかもしれない。》

 けれども、ラスト近くでは、こんなつぶやきも聞かれます。

  《ポッコもジョジョもミケもそれぞれにいろいろな特徴のある現
 実の体を持っている猫だけれど、私や妻という特定の人間だけと特
 定の関係を作っているという意味で、私や妻にとって(ゆかりや浩
 介たちや奈緒子姉にまで広げてもいいのだろうが)ポッコとジョ
 ジョとミケは抽象的でもある存在なのだと思う。私が使う「抽象」
 という言葉は本来の定義から外れているかもしれないが、とにかく
 綾子の声がただ物理的にこの空間を振動させるだけでなく、繰り返
 された光景と響き合ったのと同じようにただの物理的な存在ではな
 いという意味で、ポッコとジョジョとミケは私や妻にとってただの
 物理的な存在でなく抽象的な存在なのだと思う。(中略)
  チャーちゃんが死んだとき私は生まれかわりを確信して、しかし
 その確信がいまではだいぶ遠くなってしまったことは確かだけれ
 ど、生まれかわりというのは同じ外見をした個体や同じ内面を持っ
 た個体がもう一度この世界にあらわれるというような、単純で物質
 的に証明できるようなことではないのではないかと私は思うように
 なっていた。
  いなくなった神をただいないものとするのでなく空欄として残し
 つづけるように、生まれかわり自体はないのだとしても生まれかわ
 りという概念が人間の歴史の中で長い時間持っていたそのリアリ
 ティは人間と世界との関係の中に起源があるはずなのだから、関係
 それ自体がなくなっているわけではなくて、それに別の言葉をつけ
 るのでなく空欄として残しつづけるということなのだが、具体性は
 物質をこえたものであっても物質を必要としないものではない。テ
 ルトゥリアヌスのあの「神の子が死んだということはありえないが
 ゆえに疑いがない事実であり、(ほうむ)られた後に復活したということ
 は信じられないことであるがゆえに確実である」という言葉にして
 も、私には物質とまったく無縁のこととは思えない。
  チャーちゃんはただ私や妻の記憶の中に生きつづけているという
 ようなことではなくて、もっと強く実在する感じがなければならな
 くて、そうでないと死ぬ前の一ヵ月間の白血病による苦しみも消え
 ないし、もっとつづいていたはずの命が四年数ヵ月で中断された悲
 しみも消えない。私の気持ちの中で消えるのではなく、チャーちゃ
 ん自身としてそれが消えたということを私が見るか、見ないまでも
 強く感じることができなければならない。(中略)
  私の心の中にあるチャーちゃんのあの苦しんでいた姿がただの記
 憶として薄く弱くなって、日向で寝ていた幸福な時間が(だって
 チャーちゃんが生きたほとんどすべては幸福な時間だったのだか
 ら)強く明らかに感じられるようになったときには、きっとそれは
 私の心の中だけの出来事ではなくて、世界の中で起こったことだと
 考えてもいいはずじゃないかと思うのだ。》

 あくまで日常的な暮らしを綴る小説のなかに、こうした哲学的
(?)な考察がはさまれる。それでもいっこうに違和感を感じさせないのが保坂和志の小説の魅力で、この作家の自在で端倪すべからざる文学観は、同じ著者による『世界を肯定する哲学』や『小説の自由』等を読むと、よく分かります。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。