場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第九章 異世界への扉〉1
柳田國男『遠野物語』
前田速夫
山人との遭遇

『遠野物語』の著者柳田國男と『死者の書』の著者折口信夫の本業は、ともに民俗学であるために、もしかしたら、馴染の薄い人がいるかもしれません。しかし、二人とも出身は文学なのです。筆者は定年退職後、文芸の編集者から在野の一民俗学徒に転身しましたが、自分のなかではそれまでとはまったく異なる世界に身を置いたとは思っていません。師匠格だった谷川健一も、歌人でした。
柳田國男は明治八年、兵庫県神東郡田原村に医者で漢学者の松岡操・たけの六男として生まれます。その生家を訪ねたことがありますが、看板に「日本一小さい家」と書かれていたのが印象的でした。
十三歳の時、茨城県北相馬郡布川町で医師となっていた長兄松岡鼎のもとに引き取られます。十六歳で、次兄井上通泰の住む東京下谷御徒町に移り、次兄の友人森鷗外の「しがらみ草紙」に歌文を発表、松浦萩坪に和歌を学び、同門の田山花袋を知る。一高から東大法科へ進学、花袋・独歩らと詩集を刊行(『野辺のゆきき』を収録)。三三年、東大卒業後、農商務省に入り、早大で農政学を講じます(四三年、『時代ト農政』を刊行)。三四年、長野県飯田出身の大審院判事柳田養平の養子となり、三五年、法制局参事官に任官。同年、牛込の柳田家で花袋、独歩、蒲原有明らと談話会を開き、三八年、日本自然主義の温床となった竜土会を、三九年には、イプセン会を主宰する。
しかし、四〇年、花袋が『蒲団』を発表したのをきっかけに、文壇が私小説の方向に傾いたのを大いなる不満として、以後急速に文学から遠ざかり、貴族院書記官長、朝日新聞客員、国際連盟統治委員会委員を務めるのと併行して、みずからが創始した日本民俗学の研究に打ち込みます。
代表作は『遠野物語』のほか、『後狩詞記』『石神問答』『毛坊主考』『山島民潭集』『山の人生』『桃太郎の誕生』『一目小僧その他』『女性と民間伝承』『地名の研究』『木綿以前の事』『国語の将来』『妹の力』『明治大正史・世相篇』『日本の祭』『先祖の話』『不幸なる芸術』『海上の道』など。紀行文には、『樺太紀行』、『豆手帖から』『雪国の春』(東北)『秋風帖』(駿河、遠江、三河)『海南小記』(沖縄)など。
折口信夫は、柳田國男の高弟で、この二人が、日本民俗学を主導して、いまもって仰ぎ見る高峰として聳え立っています。
折口は明治二〇年、大阪府西成郡木津村の生まれ。生家は代々生薬と雑貨を商い、祖父は大和飛鳥坐神社の神主でした。大家族のため、幼時は里子に出されますが、和歌に親しみ、芝居を見る機会にも恵まれました。府立五中に進学、同級生に武田祐吉、岩橋小弥太、西田直二郎がいました。明治三八年、国学院大学に入学、講師三矢重松の恩顧を受け、四二年、根岸短歌会に初めて出席、伊藤左千夫らを知る。四三年、国文科を卒業後は大阪に帰り、今宮中学の嘱託教員となりますが、大正二年三月、柳田國男の「郷土研究」が創刊されると、「三郷巷談」を投稿、柳田の知遇を得、以後終生の師と頼みます。
三年三月、卒業した教え子たちと上京、折口塾を営み、柳田の郷土会や「アララギ」との縁が深まる。九年七月、濃・信・三・遠の国境山間地方に民間伝承再訪の旅に出、このときの印象が「人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ」その他の吟となります。
一〇年、念願の沖縄旅行を試み、一一年国学院大学教授、昭和三年慶応大学国文科主任教授、発生的にみた国文学史、日本芸能史を講義、四年四月『古代研究』を刊行、一四年小説『死者の書』を執筆。一六年十二月、大東亜戦争勃発、一九年には応召中の藤井春洋を養子として入籍するものの、翌年春には春洋の硫黄島玉砕が確実となります。戦後は詩作、劇評の筆を執ることが多く、二三年九月永眠。
代表作は、前述の著作のほかに、『髯籠の話』『妣が邦へ・常世へ』『日本文学の発生序説』『信田妻の話』『餓鬼阿弥蘇生譚』『翁の発生』『ごろつきの話』『日本文学啓蒙』『日本芸能史六講』『恋の座』『世々の歌びと』『民族史観における他界観念』『かぶき讃』など。歌集は『春のことぶれ』『倭をぐな』、詩集に『古代感受集』『近代悲傷集』『現代襤褸集』、小説に『口ぶえ』『神の嫁』『生き口を問ふ女』『身毒丸』など。ちなみに、歌人・詩人としての別名は釈超空でした。
さて、両者の作品についてです。柳田國男の『遠野物語』(新潮文庫)は、初版の序で作者自身が成立の事情を述べています。
《此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十
二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せ
しなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も
一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。思ふに遠野郷には
此類の物語
望す。国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山
人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を
》
では、遠野とはどういったところか。それも、この続きに書かれています。
《昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上
には町場三ヶ所あり。其他は唯青き山と原野なり。人煙の稀少なる
こと北海道石狩の平野よりも甚だし。
来り
亭の主人に借りて独り郊外の村々を
谷は土肥えてよく
ず。(中略)
菅笠の如く又片仮名のへの字に似たり。(中略)遠野郷には八ヶ所
の観音堂あり。一木を以て作りしなり。此日
に燈火見え
上は自分が遠野郷にて得たる印象なり。》
つまり、同書はこの遠野に伝わる伝説、昔話の集成で、その主な内容は一、山人(山男、山女)と人間との交渉、二、精霊(オシラサマ、ザシキワラシなど)と人間との交渉、三、他界と人間との交渉(マヨヒガ、ダンノハナ、デンデラノ)の三つに分けることが出来ます。私はこれらすべてをひっくるめて、「異界」に住む山人と平地人との交渉と呼びたいと思います。代表的なものを掲げます。
《山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛と云ふ人
は今も七十余にて生存せり。此翁若かりし頃猟をして山奥に入りし
に、遙かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を
居たり。顔の色極めて白し。不敵の男なれば直に
ち放せしに
け高き女にて、解きたる黒髪は又そのたけよりも長かりき。後の
入れ、やがて家路に向ひしに、道の程にて耐へ難く睡眠を催しけれ
ば、
うなる時に、是も
の綰ねたる黒髪を取り返し立去ると見れば
山男なるべしと云へり。》(三)
《
は
樹の下に草履を脱ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十年あまり
過ぎたりしに、或日親類
て老いさらぼひて其女帰り来れり。如何にして帰つて来たかと問へ
ば人々に逢ひたかりし故帰りしなり。さらば又行かんとて、再び跡
を留めず行き失せたり。其日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠
野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの
て来さうな日なりと云ふ。》(八)
《佐々木氏の曽祖母年よりて死去せし時、棺に取納め親族の者集
り来て其夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心の為離縁せら
れたる夫人も
が所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる
坐り、母人は
裏口の方より足音して来る者あるを見れば、亡くなりし老女なり。
平生腰かゞみて
ありしが、まざ

と思ふ間も無く、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて
炭取にさはりしに、丸き炭取なればくる

気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打臥し
たる座敷の方へ近より行くと思ふ程に、かの狂女のけたゝましき声
にて、おばあさんが来たと叫びたり。其余の人々は此声に睡を覚し
《山口、
に土淵村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍
に之と相対して必ず蓮台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人
はすべて
ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を
為に今も山口土淵辺にては
夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。》(一一一)
異界との交渉が「眼前の事実」であったことを示して、私たち平地人を戦慄させるこの作を、花袋が粗野を気取った贅沢」と評したのは、自分の開拓した私小説を否定されてやっかむ気持ちがあったのかもしれません。小説としての観点からもすぐれていることは、三島由紀夫が前掲の第二十二話を取り上げて、こう激賞したことからも、了解できます。
《この中で私が、「あ、ここに小説があった」と三嘆これ久しう
したのは、「裾にて炭取りにさはりしに、丸き炭取りなればくる

であり、日常性と怪異との疑ひやうのない接点である。この一行の
おかげで、わづか一頁の物語が、百枚二百枚の似非小説よりも、は
るかに見事な小説になっており、人の心に永久に忘れがたい印象を
残すのである。》(『小説とは何か』新潮社)
そのほか、おしらさまの由来、座敷
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。