場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈第八章 無意識下の領域〉2
 内田百『冥土』/萩原朔太郎『猫町』/島尾敏雄『夢の
 中の日常』/筒井康隆『夢の木坂分岐点』/笙野頼子『レ
 ストレス・ドリーム』
前田速夫


   夢魔  

 漱石の弟子内田百も、『夢十夜』にならって、『冥途』(岩波文庫)という総タイトルで、夢の連作十八篇を書いています。ただし、彼は漱石とは反対に、一切、「こんな夢を見た」と断っていないし、作中にも、夢という言葉はどこにも見当たりません。それでも、読みすすめてゆくうち、なんだか変だな、現実のこととは思われないなと思えて来て、生の不安、生の不気味な気配が濃厚に漂いだします。
 たとえば、「(くだん)」。「私」は野原のまんなかで、からだが牛で顔だけ人間の「件」という、浅ましい化け物になって、ぼんやり立っている。件は生まれて三日で死に、その間に人間の言葉で、未来の凶福の予言をすることになっている。それで、「私」のまわりに、だんだん人が集まってきて、取り巻く。こんな変なものに生れていつまで生きていても仕方がないから、三日で死ぬのはかまわないけれども、自分は予言なんか出来っこないから、不安でならない。そのうち、群衆の方にかえって不安な気配が漂う。

  《「いいにつけ、悪いにつけ、予言は聴かない方がいい。何も云
 わないうちに、早くあの件を殺してしまえ」
  その声を聴いて私は吃驚(びっくり)した。殺されては(たま)らないと思うと同
 時に、その声はたしかに私の生み(のこ)した(せがれ)の声に違いない。今迄
 聞いた声は、聞き覚えのある様な気がしても、()()の声だとはっき
 りは判らなかったが、これ計りは思い出した。群衆の中にいる息子
 を一目見ようと思って、私は思わず伸び上がった。
  「そら、件が前足を上げた」
  「今、予言するんだ」と云うあわてた声が聞こえた。その途端
 に、今迄隙間(すきま) もなく取巻いていた人垣が俄に崩れて、群衆は無言
 のまま、恐ろしい勢いで、四方八方に逃げ散って行った。柵を越
 え、桟敷をくぐって、東西南北に一生懸命に逃げ走った。人の散っ
 てしまった後に又夕暮れが近づき、月が黄色にぼんやり照らし始め
 た。私はほっとして、前足を伸ばした。そうして三つ四つ続け様に
 大きな欠伸(あくび)をした。何だか死にそうもない様な気がして来た。》

 百は岡山県の生まれですが、件は江戸後期、西日本に流行した、禍福を予言したと言われる伝説の獣。「よって件のごとし」という成句は、これに由来するという説がありました。
 表題作の『冥土』は、この短編集の最後に置かれています。小屋掛けの一膳めし屋で「私」はめしを食っている。ほかに四五人客がいるなかに「五十余りの年寄り」がいる。「その人丈が私の目に、影絵の様に映っていて、(しき)に手真似などをして、連れの人に話しかけているのが見える。けれども、そこに見えていながら、その様子が私には、はっきりしない。話している事もよく解らない」。
 五十余りの人は、亡くなった父のようで、してみると、ここは「冥土」のようです。「私」は一心に耳を傾け、「お父さま」と呼びかけますが、声が届きません。それは、「私」がまだ生の側の人間だからでしょうか。このどっちつかずの曖昧な状態、遅延、もどかしさと生の不安とが、夢のトポスを用いて巧みに表現されています。
 以上のほか、近現代文学には、夢を小説に描いた作品はたくさんあります。あふれかえっていると言ってもいいかも知れません。夢に逃げ込めば何でも書けて便利だからですが、そうした安直さから免れている作品として筆者がお薦めしたいのが、萩原朔太郎の『猫町』(岩波文庫)です。
 語り手の「私」は、東京から北越の温泉に出かけ、ある日軽便鉄道でU町まで遊びに行く。途中で下車し、レールに沿って秋色を楽しみながら歩き、この地方の伝説にある犬神や猫神に憑かれた村のことなどを思い浮かべていると、レールが消えている。急に不安になって、長いこと彷徨い、やっと別の細道を見つけて麓に降りる。すると、そこには思いがけなく「繁華な美しい町」が現れる。英語の看板の理髪店、旅館、洗濯屋、窓ガラスに青空が侘しく映る写真屋、時計屋。町は人出が多いのにひっそりとしている。すべての物象と人物が影のように往来しています。
 このとき「私」は、街を構成するあらゆる神経が異常に緊張していることに気づきます。この危うく繊細な均衡は、一つの言動の狂いで崩壊するだろう。「私」は不安になり、凶兆を感じます。「私」が「今だ!」と叫ぶと、黒い鼠のようなものが街の真中を走り、次の瞬間には、人間の顔をした猫の大集団が街を歩いています。猫、猫、猫、猫、猫……。家の窓口にも猫の顔がある。
 「私」は昏倒しそうになり、破滅が迫ってくるのを感じます。闇を走る戦慄。しかし、次の瞬間には正常な意識が戻っていて、猫の大集団は消え、「繁華な美しい街」は平凡な田舎町となっていて、よく知っているU町とわかります。理髪店は客の来ない椅子を並べ、時計屋はあくびをしています。
 私の偏愛するつげ義春の漫画『ネジ式』も、たしかこのような悪夢に似たシーンを描いていましたが、朔太郎のこの『猫町』が優れているのは、恐怖と美とが背中合わせになっていて、その危うい均衡に鋭い緊張がみなぎっているからでしょう。  


   消失する境界  

 同じ夢を描いても、島尾敏雄の『夢の中での日常』や筒井康隆の『夢の木坂分岐点』ともなると、次から次に生起する事柄は、もはや夢と現実との区別はなくて、すべてが地続きです。
 『夢の中での日常』(角川文庫)の「私」は、スラム街のある慈善事業団に入ってゆきます。不良少年団の一員になるためです。そこでハンセン病にかかった小学校時代の友人にゴム製品を押し売りされ、手を消毒している姿を見つけられて追いかけられます。町を歩いていると、無数の飛行機が飛び交い、最後の日の到来を思わせます。南方の町にいる母を訪ねると、母は不義の混血児を負ぶっています。「私」は「この子は立派に私の弟です」と言うが、父は許さない。やがて、女性の部屋に行くと、子供がいて、医者に見放されたという。そこに自分の作品が載っている雑誌がある。女性が「私」のアタマが変だと言うので、頭に手をやると、カルシウム煎餅みたいな瘡ができている。瘡をかきむしると猛烈な腹痛が起こり、「私」が右手で胃を引っ張ると、「私」の身体は完全に裏返しになってしまいます。最後は、こうです。

  《頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのよ
 うにのっぺり、透き徹って見えた。そして私は、さらさらと清い流
 れの中に沈んでいることを知った。その流れは底の浅い小川で、場
 所はどうも野っ原のようである。私はさらさらした流れに身体をつ
 けたまま、外部を通し見た所に、何の木か知らないが一本の古木が
 あって、葉は一枚もなく朽ちかけた太い枝々の先に、(からす)がくちば
 しを一ぱい広げて喰いついているのが見えた。それをもっとよく見
 ようとして目をみはると、それも一羽だけでなしに、どの枝の先に
 も、そのようにくちばしを一ぱい広げてがっぷり枝先に喰いついた
 鴉がうようよしていた。それは丁度貝殻虫のように執拗な感じを与
 えた。鴉はそのままの姿勢でいつ迄もそうやっているような気がし
 た。ただ生きている証拠に、てっぺんに向けた尻を時々動かして
 は、翼をやんわり広げる恰好をした。然しくちばしで葉のない太い
 枯枝にがっきり喰いついたままであることに変りはなかった。それ
 で流れの中につかっている私は、その鴉どもを、貝殻虫をむしり取
 るように、ひっぺがしてやりたいと考えていた。》

 この島尾敏雄は、『出発は遂に訪れず』で書いたように、死を覚悟して特攻待機していた翌朝、終戦を知らされ、その結果、周囲のあらゆることに違和を覚え、存在すること自体に苦痛を覚えたことが、こうした奇怪な表現となって現れたと思われます。
 一方、筒井康隆の『夢の木坂分岐点』は、主人公の名前が小畑重則から始って、大畑重則、大畑重昭、大牟田常昭……と、めまぐるしく入れ替わり、彼らは夢の木坂駅から分岐した各路線で、会社員、兼業作家、専業作家と、それぞれ別の人生を生きています。物語は、分岐点で各人が乗り換えるたび、入れ替わる趣向になっていて、最後は夢の木坂駅のそばに、この物語世界を象徴するかのように、巨大な「夢の木」が出現します。
 とはいえ、ここでは、本来現実や虚構との境目が定かではない夢を、意図的にあえてひっくりかえして、乗換駅がその境目であることが明示され、おまけに専業作家大村常昭が講演で語る多元宇宙の概念がその解説を果たしてしまっているので、不可解さよりはむしろスラプスティックな笑いの要素を強く押し出したといえるでしょう。

      

 これが笙野頼子の『レストレス・ドリーム』(河出文庫)になると、夢を受動的にではなく、いっそう過激に、積極的戦略的に活用していて、作中の〈私〉が記述する死者世界で繰り広げられる奇怪な悪夢ゲームはパワー全開、大噴火を起しています。
 小説は、作中の〈私〉の分身としてワープロとドラムスで文章を叩きだす反乱サイボーグ女戦士桃木跳蛇と、スプラッタシティなる言語サイボーグ帝国とのデスマッチとして進行します。「馬鹿女」「ブス」「ヒステリー」など、女性を罵り、卑しむ言葉には、それを無化する言葉で対抗する、RPG様式の言語ゲームですが、負けると殺されます。つまり、これは夢でも遊戯でもなくて、作家が言語表現という唯一の武器で立ち向かった生死をかけた戦いなのです。
 「レストレス・ドリーム」「レストレス・ゲーム」「レストレス・ワールド」と来て、最終篇「レストレス・エンド」のラスト、跳蛇が敵の王子を呑み込んで闘いに勝利したあと、一行置いてこう書かれている。

  《恐ろしい予感の中、私はオアシスの拡張機能のキーとシフト
 キーに指を当てた。同時に印刷のキーを押した。強い力で私は吸い
 込まれて、プリンターからリボンの中へと引き込まれた。結局私は
 ワープロの内側に存在して、そこからキーを操作していたのだっ
 た。
  私は、私という文字に過ぎなかった。この時初めてワープロの外
 に出たのだった。そこは白い内装の狭い部屋で、机と椅子とベッ
 ド、床の上にはあらゆるものが荒んだ印象で散乱していた。ハー
 ビー・ハンコックとチック・コリアのデュオでサムデイ・マイ・プ
 リンス・ウィル・カムが流れていた。美しい音楽に比して荒れた部
 屋であった。断食の体臭とジンの匂いが混じって部屋に蟠ってい
 た。総て埃にまみれ空気は澱んでおり、本棚の上で観葉植物が枯れ
 縮んでいた。机の下にまだ二十代らしい、跳蛇そっくりの女性が横
 たわっていた。半分死体のような顔をしていた。目は殺してくれと
 訴えているようにも見え兼ねなかった。横たわる足元には刃物で
 まっぷたつに切られた黒い小さいハイヒールが転がっていた。足の
 裏には一面に火膨れに似た豆があった。死体のような相手は私の視
 線の前でふいに目覚めた。瞳に力が入り唇を動かして何か言った。
 窓の外には知らない景色が拡がっていた。相手の唇にまた力がこ
 もった。
  ありがとう、と言おうとしているのだった。》

 夢の中では勝利した跳蛇ですが、ワープロの外に出た作中の「私」は息も絶え絶え、ただ作者を見つめるのみでした。
 日常の世界ではさまざまな配慮から抑圧され、規制されている願望が、夢に現れる意識下の領域では、緩和され、解放されます。フロイトはそれを主に性的な欲望の補完、充足であると分析し、ラカンは鏡像段階など独自の概念を用いて精緻な理論を展開しました。けれども、そのように論理的に解明してしまっては、夢の夢ならではの不思議と魅力は半減してしまうのではないでしょうか。
 脳の働きがどうであれ、精神分析学や心理学の解説がどうあれ、私は、夢が社会的な規制や自我などをものともせずに、本人が思いもしなかった意識や行動をとらせ、しかもそのことにいささかの疑念も持たずに、自己の記憶と正面切って向き合い、それと真剣に格闘しているところに、最大の魅力を感じます。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。