場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
インタールード2 戦場の記憶
前田速夫
近代に入ってから、わが国は日清・日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、大きな戦争をいくつも経験しました。なかでも、大東亜戦争、太平洋戦争とも呼ばれた先の大戦は、日本人の死者が三百万人以上、対戦国の死者も四千三百万人を超え、いまだに大きな傷跡を残しています。ところが、一時期、経済白書は「戦後はもう終わった」と高らかに宣言し、最近では、電車のなかで男子大学生同士が、「日本はアメリカと戦争したんだってよ」「えッ、ウッソー」という会話をしていたことがテレビのバラエティ番組で報じられるなど、わが国民の健忘症にはあきれるばかりです。
けれども、ウクライナやガザでの悲惨な戦争や、北朝鮮や中国による軍事的脅威と、キナ臭い臭いは増すばかり。アメリカ頼みのわが国の安全保障が心細いのはその通りですが、「有事」に備えよとの脅しに屈して、誤った道に踏み出さないためには、戦争を体験したことのない私たちが、今こそ戦場の現実を骨身に浸みて知ることが急務ではないでしょうか。
大岡昇平の『俘虜記』『野火』の二作は、戦争文学の白眉。『俘虜記』では、昭和十九年に召集を受けた作者が、フィリピンのミンダナオ島に出征し、二十年一月に米軍の来襲を受けて捕虜となり、レイテ島の収容所で終戦を迎え、同年十二月に復員するまでが、冷静な筆に綴られますが、『野火』では、草や山蛭を食べ、塩を嘗めながら山野を彷徨う「私」=田村一等兵は、偶然による事故から、やってきた比島女を射殺することになり、のちのちまで彼を苦悶させ、仲間の負傷兵が息絶える寸前に「俺が死んだら、これを食べてもいいよ」と言い残したことは、それまで我慢し続けてきた人肉を食べたいという渇望の堰を切らせる。
しかし、いざ剣を右手に肉を切り裂こうとしたとき、左の手がその行為を阻止したのは何故だったでしょう。人肉食を免れた「私」は、その後、仲間にすすめられて、猿の干し肉で命を繋ぎます。けれども、それが人肉だったことを知って、「私」は嘔吐する。安田、永松という同胞同士の殺し合い、そして生き残った永松に銃口を向ける「私」……。「私」の記憶はそこで切れ、以後、精神病院でのシーンに転換します。
すなわち、この作品では人間精神が極限にまで追い込まれた時に出現する「神」の問題をも描いて、戦争文学の枠をはるかに超えた高水準の文学を創出したのでした。そればかりではありません、戦時のディテールを徹底的に調べ上げた長大な『レイテ戦記』は、記録文学の金字塔です。
フィリピンのレイテ島の収容所で敗戦を迎えた大岡に対して、上海で敗戦を知った武田泰淳は、これで祖国日本は滅亡した、これからはユダヤの民や白系ロシア人のような運命をたどることになるのだと考えるほどの衝撃を受けました。そして、小品ながら彼が取り組んだ『審判』は、語り手の「私」が知り合いの老牧師の息子から、戦地で集団的ではない殺人を行い、そのことの裁きを受けるため現地に留まることを知らされる顚末を綴って、極度に深刻な問題を提示しました。
一方、小島信夫の『小銃』は、同じ戦場を舞台にしていても、主人公の意識も、作者の創作態度も、天と地ほど隔たっています。
《私は二十一歳で内地をたつ時、二十六歳の年上の女で出征中の
夫をもつ人妻に、あたえられ得る最大のことをのぞんだ。夫の子供
をやどしている女を、実家へ送りとどける途中、行きあたりばった
りの寒駅の古宿で、私はその七カ月にふくらんだ白い腹をなで、あ
ちこちの起伏、凹みに顔をむせばせるだけで別れた。さわらせて、
もう少しさいごだから、という私の声に、女は贖罪のつもりか、目
をとじてあけず、用心深く私の手をにぎって自由にはさせなかっ
た。漠然とした手ざわり、匂い、それから黒子が手がかりであっ
た。
銃把をにぎりしめると、私の存在がたしかめられた。そこから生
命が私の方へ流れてくるように思われた。銃把は女がみごもる前の
腰をおもいおこさせた。私はかなしみをこめてその細い三八銃の腰
をにぎりしめた。いたいいたい慎ちゃんやめてよ、むりよ。私には
そういう声がきこえるようだった。》
ここには、大岡昇平が追求した、極限状況下における人肉食、神といった問題や、武田泰淳が追求した罪と罰といった形而上的な問題は眼中になく、また野間宏や大西巨人のようなあからさまな告発とも無縁で、ひたすら卑小な私の卑小な思いに没入しています。しかし、それだけに作者の戦争に対する態度は、よけいはっきりと表明されているように思えます。
これが古山高麗雄、田中小実昌となると、戦場でもの思いに耽る余裕すらなくて、襲撃や行軍の場でのあからさまな事実が、万年一等兵の低声を通して淡々と語られて、戦争というものの不条理と非情が、いっそう救いがたく感じられます。
「今夜、だろうな、おれの死ぬのは。攻撃は十時だという。始まったらすぐ、死ぬだろう」と始まるのが、古山高麗雄の『今夜、死ぬ』です。
田中小実昌の『岩塩の袋』は、地下足袋にズックの背嚢にゴボウ剣と、およそ兵隊らしくない姿で、武器もないまま、言語に絶する行軍のさなか、ばたばたと仲間の兵士が仰向けになったカエルのように倒れて絶命してゆき、ようやく原隊に到着すると、生命のもととして背嚢の奥深くにしまってあった岩塩が、塩分を失って無用の物質に化していたことが語られます。
近未来の戦争は、コンピュータの操作でたちまち敵国のライフラインを止めてしまう電子戦争か、ボタン一つで人類が死滅する核戦争かのどちらかで、そうなればこうした戦場は過去のものとなってしまうのかも知れませんが、そうなるまでには、またしても同じことが繰り返されるのです。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。