場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈第十二章 異国にて〉1
 遠藤周作『留学』/小川国夫『アポロンの島』/大庭みな
 子『三匹の蟹』
前田速夫


  負い目と劣等意識 

 森鷗外の『舞姫』三部作、島崎藤村の『新生』、永井荷風の『あめりか物語』『ふらんす物語』、横光利一の『上海』『旅愁』など、戦前にも海外を舞台にした名作がありますが、ここでは戦後のそれについて見てゆきます。
 遠藤周作は昭和二十五年七月、戦後初のカトリック留学生としてフランスに渡りました。当時の日本はまだアメリカの占領下にあり、パリの日本大使館は開かれていませんでした。留学といえば聞こえはいいものの、フランス船マルセイエーズ号の四等船客として、荷物を入れる船艙に寝起きする船旅でした。フランスに着いてからも三年間、異国で孤独を噛みしめます。
 文化や宗教における伝統の相違に悩んだ作家は、これまでにも少なくありません。しかし、最初期から最晩年まで、その追求を自己の文学のテーマとした作家は、他に例を見ません。『白い人・黄色い人』『海と毒薬』『沈黙』『死海のほとり』『深い河』、みなそうです。
 『留学』(新潮文庫)は、第一章「ルーアンの夏」、第二章「留学生」、第三章「(なんじ)も、また」の三章から成ります。それぞれ、カトリック神学生の工藤、日本最初のヨーロッパ留学生である十七世紀の荒木トマス、フランス文学者の田中という、三人の留学生が主人公で、ヨーロッパの精神風土との絶対的な距離感、違和感のため、虚しく挫折してゆく姿を描きだします。工藤は作者の分身ですし、荒木トマスはのち「転びバテレンのペトロ」と綽名されましたから、『沈黙』の原型ともいうべきもの。ここでは第三章の「(なんじ)も、また」について。
 田中は大学の講師で、マルキ・ド・サドの研究者。ところが、念願のサド研究家ジルベール・ルビイとの会見がかなうや、「なぜ、東洋人のあんたが、サドを勉強するのかわからん」と言われてしまいます。外国文学の研究といっても、言葉も伝統も違う以上、そこには越えられない壁があります。外国文学者とは、なんと悲しくいかがわしい存在でしょう。
 小説の後半、田中はサドの住んでいたラ・コストの城を訪れます。一度目は雪が深くて近寄れません。「神の沈黙」は、キリスト教における最重要の主題のひとつですが、ここで城は、その沈黙を守る神のように、遠いかなたに立っています。

  《遠い部落から犬の()える声が静寂な白い空間を破ってきこえて
 くる。今まで少し晴れていた空にまた暗い雲影がながれていった。
  (ここまで来たのに。ここまで来たのに)
  鸚鵡(おうむ)のようにこの言葉をくりかえしながら田中はハンカチで顔を
 こすった。ラ・コストまで来て城に行けぬ。城は遠くにある。城は
 寄せつけぬ。(中略)
  ラ・コストの城が遠くに存在するのは俺自身のせいだ。城が俺を
 寄せつけぬのは俺のサドが本物ではないからだと田中は立ちどまっ
 て考えた。》

 やがて、帰国を余儀なくされた田中の部屋に、今夜から泊まる日本からの新たな留学生が到着します。それを知らされて、「(なんじ)も、また……」と呟くところで、この小説は終わります。


  澄明なまなざし 

 小川国夫の処女作品集『アポロンの島』(新潮文庫)は、昭和三十二年、青銅時代社から五百部、自費で出版されました。それから八年後、島尾敏雄が朝日新聞の「一冊の本」欄で、当時は無名のこの作家のこの本を激賞したことで、一躍注目を浴びることになります。

  《形容を抑制し、場景と登場人物の外面的な動きを即物的に写生
 し、透明な使い方によることばを、竹をたてかけるぐあいにならべ
 ただけなのに、その字と行の白い空間からかたりかけてくるなにか
 に、ひきつけられた。
  その「なにか」の内容を、すっかり承知しているとは言えないと
 しても、ヨーロッパ風な掟のにおいが感じられた。それは旅先のよ
 そおいでなく、内発的な生活のリズムの中でとらえられているとこ
 ろがこころよかった。抑制はきいているが、つつましいというので
 はなく、血のにおいにむせかえる側面を見せることもある。それは
 どうしても物語の骨髄をふまえ、掟の重さのネガティブな写しとり
 も意識のすみでとらえての筆法に相違ない、と思わせ、天主堂の祭
 壇わきの香部屋に出入りした少年の日を持った者の目が、その行間
 をうめているとしか思えないところがあった。その少年が直面して
 いるのはいわば神々の国の日本という世界なのだから、あとずさっ
 て自分の素性をさぐろうとするとすべての風景がまた別の表情で血
 なまぐさくうつってくるだろうと思われた。それが小川国夫の小説
 であった。》

 表題作では、主人公の浩はミコノス島へ旅して、大勢の人と知り合いになります。美術教師のジャン・ピエール、スイスから来た四人の女の子たち、エレーヌとエリカとアニーとアニーの姉さん。それから南アフリカからロンドンへ出て、建築の勉強をしている恋人のような夫婦のジェイムズとアイリン。浩は自分と同じ旅行者である彼らとすぐに親しくなり、それまでの日本人だったら示したようなコンプレックスだのこだわりだのは、少しもありません。
 休暇が終わって、ピエールが船でギリシアへ向かいます。その晩、雷が鳴り、海が時化ます。翌朝、浩は宿の小母さんの身振りに、ピエールの乗った船が遭難したと思いこみ、島の人たちに安否を聞いてまわります。
 一緒に心配してくれたアニーは泣きはじめ、浩はその優しい心に惹かれ、島に留まって彼女と住んでみたいとまで、想いを膨らませる。けれども、調べていくうち、船は無事だったことが分かる。
 「さっき迄、ジャン・ピエールの死が頭をかすめていて、心が暗かったのだ。浩は、物事をこういうとり方をする自分が不安だった
」。そして考えたあげく、すべてを断ち切って、ひとり島を離れます。「晴れていて、船が走り出してからもしばらく、突堤の人々は誰か判別出来た」というのが、結びの一行。


  霧のなか 

 大庭みな子の『三匹の蟹』(講談社文庫)は、一九六〇年代のアメリカの小都市が舞台です。主人公由梨は医師である武の妻であり、十歳の娘梨恵の母であり、ブリッジ・パーティに集る人々をもてなすべき一家の主婦ですが、娘と菓子を作りながら、その気になれません。
 客は夫の武と関係のある牧師の妻サーシャ、由梨と関係のあった英文学者フランク、フランクの恋人で画家のロンダ、物理学者の横田夫妻、留学生のケイコ。それぞれが、相手の性的魅力の値ぶみを行い、媚態を競いあう、おさだまりの成り行きなのに、表面は気のきいた冗談や警句を交わして、品よく、無意味に場を盛り上げています。
 「誰にも本当のことを言えない」こうした人間関係に嫌気がさした由梨は、口実を設けてパーティを逃げ出し、クルマでわけもなく夜の遊園地に向います。桃色のシャツを着た、遊園地の展覧会場の係の男に対してことさらな関心があったわけでもないのに、さそわれるまま始めてジェット・コースターに乗り、ゴーゴー・ダンスを試み、やがて海辺の宿「三匹の蟹」で、一夜を過ごします。翌朝、男は金を盗んで消えていました。由梨は、バスで夫と娘の待っている家へと向かいます。
 駐在員の妻で、アラスカ州シトカ市在住の三十八歳の女性が投稿したこの作品は、群像新人賞に続いて、芥川賞も受賞し、両賞選考委員の圧倒的な支持のもと、大型新人の登場として文芸ジャーナリズムに迎えられました。家族という制度が幻想になりかけているアメリカの状況を女性の側から描いたこの作品は、やがては日本の現実になるだろうという予感を抱かせて、大いに話題を呼んだのでした。
 小説の冒頭は、時間の流れとは逆に、由梨がバスで家に戻る場面が置かれています。

  《海は乳色の霧の中でまだ静かな寝息を立てていた。()(ぐさ)のよう
 な丈の高い水草の間では、それでももう水鳥が目を醒ましていて、
 羽ばたいたり、きいきいとガラスをこするような啼声を立ててい
 た。灰色の汚れた雪のような(かもめ)はオレンジ色のビイ玉のような眼
 をじっとこちらに向けて横柄に脚で砂を掻いてはぷい、と横を向い
 た。
  歩いていると、霧が流れてくるようであった。由梨は破れたス
 トッキングの間でざらざらする砂をたわめた足の裏で脇に寄せるよ
 うにしながら歩いた。海は黒味を帯びた藤色であった。バスの停留
 所の黄色い標識のところには鳥打帽を被ったズックのボストン・
 バッグを持った若い男が一人待っていた。
  「霧があがれば、いい天気になりそうだなあ」
  男は由梨に言うとも、独り言ともとれるような(うなず)き方で言っ
 た。
  由梨は霧の流れていく、濃い乳色の壺の奥でかすかに光っている
 海に目をとめたままの姿勢で、(あしうら)の砂をたわめた小指の先でし
 きりに脇に寄せた。暫くして、目を落すと、蟹が二匹連れ立って由
 梨の爪先からほんの二三十(センチ)のところを這っていた。蟹の甲羅は
 甲羅であって、顔ではないのだが、由梨は何時でもそのいびつな蟹
 の甲羅が顔に思えて仕方がないのである。蟹は潤んだ二つの長い眼
 を突き出していた。二匹の蟹は脚をもつれさせるようにして這って
 いた。甲羅の両端は尖っていて、海の色とそっくりの暗い藤色の殻
 であった。
  「バスが来たよ」
  鳥打帽の男は言った。(中略)
  「霧が深いなあ――」
  鳥打帽の男は再び独り言というでもなく、由梨に話しかけるでも
 なく、言った。
  由梨は霧の中に沈んでいく濃い藤色の海と、陽の光の増し始めた
 中で妙にうら哀しくまたたいている「三匹の蟹」というネオンを代
 る代るに眺めていた。》

 由梨の心象風景が心憎いばかりに描きだされていて、作者の只ならぬ力量を示しています。しかし、由梨はここで必ずしも絶望したりシニックになったりしているのではありません。それは作者が「産むことのできる性」である女性というものに、生命を自分の中に抱えこんでいる女性というものに絶望していないからで、そのことが、『ふなくい虫』『栂の夢』『浦島草』『霧の旅』『寂兮寥兮(かたちもなく)』など、後続の作品で豊かに描かれてゆくことになります。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。