場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第十章 洞窟とトンネル〉1
井伏鱒二『山椒魚』/島尾敏雄『出発は遂に訪れず』
前田速夫
洞窟の内と外

本章では、洞窟をトポスにした作品を扱います。古典文学では、
『古事記』の黄泉国訪問譚や『竹取物語』など、洞窟、竹筒をはじめとする中空のトポスは、籠りを経て、死から再生する場所としての性格が顕著ですが、近現代文学ではどのように扱われているでしょうか。最初は井伏鱒二の『山椒魚』(新潮文庫)です。
井伏鱒二は、明治三十一年(一八九八)二月、広島県の山村の地主の次男に生まれました。生家の豪壮な構えは『丹下氏邸』という作品にうかがえます。太宰治の文学上の師です。この井伏、はじめは画家志望で、京都の日本画家、橋本関雪の門を叩いたり、日本美術学校(芸大の前身)の別科に入学したりもするのですが、途中で文学志望に転じ、早稲田大学の文学部に進みます。けれども、青木南八という同級の親友が急死したことがショックで中途退学し、その後も進路に関して意に染まぬことが多く、思い屈した青春時代を送ります。
二十六歳のときに発表した『山椒魚』が処女作で、以後、平成五年(一九九三)七月、九十五歳で亡くなるまで、息の長い作家生活を続けました。代表的作品は、次のようなものです。『夜ふけと梅の花』『谷間』『川』『集金旅行』『厄除け詩集』『ジョン萬次郎漂流記』『さざなみ軍記』『多甚古村』『遥拝隊長』『本日休診』『かきつばた』『武州鉢形城』『駅前旅館』『珍品堂主人』『黒い雨』『荻窪風土記』。長編の代表作『黒い雨』は、ヒロシマでの被爆を扱っていて、今村昌平が映画にしました。
文壇の長老として、多くの作家、編集者から尊敬され、慕われ、その最晩年、私も数度お目にかかる機会を得たことは、編集者冥利に尽きます。一度は今川焼の夢屋を営んでいた深沢七郎さんを訪ねた折、帰りに頼まれてお店の今川焼を届けたこともあります。いつもお元気で、大好きなウイスキーを舐めながら若僧の相手をしてくれました。あるときは、近所の中華料理屋に連れてってくれ、一緒に食事をしましたが、次々とお皿を平らげる健啖ぶりに驚かされました。
ただ、九十歳を過ぎてからは、さすがに執筆は稀になって、一晩中原稿用紙に向っていても、いつの間にか居眠りをしていて、一行も進んでいないというようなこともあったようです。「長生きしすぎちゃったかな」と、恥ずかしそうに笑っていたのが思い出されます。
よく知られているように、『山椒魚』は、頭が大きくなって、棲家である岩屋の穴から抜け出られなくなってしまう、その狼狽、悲しみのさまを描いた作品で、ここには、作者自身の青春の屈託が仮託されていると考えていいでしょう。
はじめは川の流れの中を右往左往する小魚たちを嘲笑っていた山椒魚ですが、自分が脱出不可能なことを知ると、偶然、岩屋に紛れ入ってきた小
《更に一年の月日が過ぎた。二個の鉱物は、再び二個の生物に変
化した。けれど彼等は、今年の夏はお互いに黙り込んで、そしてお
互いに自分の嘆息が相手に聞えないように注意していたのである。
ところが山椒魚よりも先に、岩の凹みの相手は、不注意にも深い
嘆息をもらしてしまった。それは「ああああ」という最も小さい風
の音であった。去年と同じく、しきりに杉苔の花粉の散る光景が彼
の嘆息を
そして、続くラストはこうです。
《山椒魚がこれを聞きのがす道理はなかった。彼は上の方を見上
げ、かつ友情を瞳に
「お前は、さっき大きな息をしたろう?」
相手は自分を
「それがどうした?」
「そんな返辞をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい」
「空腹で動けない」
「それでは、もう駄目なようか?」
相手は答えた。
「もう駄目なようだ」
よほど暫くしてから山椒魚はたずねた。
「お前は今どういうことを考えているようなのだろうか?」
相手は極めて遠慮がちに答えた。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」》
ところが、新潮社版井伏鱒二自選全集を刊行するにあたって、作者はこの最後の一節をばっさり削ってしまったのです。
『山椒魚』はもともと、習作時代に「幽閉」の題で発表されたものに手を入れたものでした。井伏鱒二の短編代表作として定評のあった処女作を、最晩年になって変更してしまったわけですから、その執念のほどが感じられますが、当時は、ずいぶん賛否両論の意見が出たものでした。私はこのままのほうが、余韻があってずっといいし、作品としてもひろがりがあると思いますが、皆さんは読み比べて、どちらがいいと思われますか?
特攻待機

次は、島尾敏雄の『出発は遂に訪れず』(新潮文庫)です。昭和二十年八月十三日、第十八震洋隊の隊長として赴任した〈私〉は、奄美諸島加計呂麻島呑ノ浦に面した洞窟(防空壕)のなかに隠した魚雷艇に閉じこもって、「発進」の命令をいまや遅しと、じりじりしながら待っています。これは故意にではなくて、洞窟に閉じ込められた山椒魚、もしくは小蝦です。
まんじりともしないままに夜が明け、南国の太陽が容赦なく照りつけ始めると、鬱血した倦怠が広がり、やりばのない不満が体の中をかけめぐる。昼は空からまる見えで、攻撃は夜に限られるからです。
十四日の午後になっても防備隊からは何の音沙汰もなく、敵の飛行機もやってきません。いったいどうしてしまったのか。そのうち夕方になり、入り江の奥の村の人々が現われ、士官たち数人とついて行くと、村の女たちがよそ行きの着物を着けて、死にゆく自分たちのために踊りを踊ってくれました。
その夜、浜に出ると、懐剣を隠しもった死装束のトエが、闇の中にうずくまっていました。〈私〉は彼女に会えた嬉しさで、「からだの細胞の一つ一つが雀踊りしている」充実を感じます。彼女はそのまま明け方まで浜に座っていました。
深夜になって連絡が入ります。「一五ヒショウゴ、ボウビタイニシュウゴウセヨ」。変な胸騒ぎを覚えながら、運命の八月十五日を迎えます。結局、発進命令が出ないまま、無条件降伏を受け入れたのでした。
《「無条件降伏だよ」
ムジョウケンコウフク、と私は頭の中で
もの戦争ごっこか大学の講義のときにでもきいた実体のないことば
に過ぎないではないか。それが今現実の重さで目の前に立ちはだ
かった。といっても本当は私の耳はそれを予期していた。ただ肉声
ではっきりそのことばが発音されると、取りかえしのつかぬ重さを
装い出す。あらためてそれが具体的にはどんな意味をもつものか見
当のつかない戸惑いにぶつかった。それは少しずつ、
知のものへの
今の戦闘態勢の中で完全にそのしくみから脱れ出るまでにどれほど
こみ入った
れだ。おそらくそこを
その中でただの一つにつまずくことでもたぶんそれは死を意味する
だろう。つい先刻までは恐怖にさいなまれながらも死の方にだけ向
けていた考えが、ぴりりと引き裂かれて、生きのびられるかも分ら
ぬという光線がさし込んできた。そしてその光線を浴び無性にいの
ちが惜しくなっているのに、もう一度、死の方に頬を向け直さなけ
ればならないとはどういうことだろう。そう考えると、もともと色
つやの悪い顔が反応して急に青くなったように思え私はなんべんも
顔を両手で
笑いを、むしろもう一度呼びもどしたいと思ったほどだ。段をつけ
るようにやってきた変調が自分ながら分らない。》
ペトラシェフスキー事件に連座したドストエフスキーの、シベリアでの処刑体験にも比すべきこの体験は、作者島尾敏雄の実体験に基づいていて、トエは結婚前のミホ夫人がモデルで、私はそのミホさんから、夜中、隊長と逢引きをするのに、磯づたいに海を泳いで渡ったという話を直に聞いたことがありました。
洞窟内の魚雷艇に閉じこもり特攻の命令を待つ〈私〉は、死と背中合わせにあったわけですから、発進中止はたしかに死からの復活といえます。山椒魚もしくは小蝦は、洞窟の中から解放されたのです。けれども、このどうにもならない空虚感、はぐらかされた思いは、生きのびたことの喜びとは程遠いものです。果たして、戦後ミホさんと結婚し、二人の子供を儲けた作家を待っていたのは、むろん予期されたことではないにしろ、あの『死の棘』に書かれた、いっそうの地獄でした。
人伝てに、渦中にあって当時作者がつけていた日記を、公開してもいいとミホさんが言っていると聞き、私は気が変らないうちにと、すぐに奄美大島へ飛び、大型のコピー機を鹿児島から船で運んでもらって、ひと夏かかって、大量のコピーをしたことが思い出されます(『死の棘日記』として連載後、単行本刊)。
余談を続けると、私はこの作品の舞台になった呑ノ浦を、ミホさんに案内されたこともあります。島尾敏雄が待機した洞窟には、小栗康平監督が『死の棘』を映画化した際に製作したという実物大の魚雷艇が格納されていましたし、ミホさんが自害するつもりで一晩中正坐していたという岩場も、すぐ目の前にありました。ロシアのソクーロフ監督がミホさんを主人公に『ドルチェ 優しく』という映画を製作したときにも、詩人の吉増剛造氏らとその岩場での撮影に立ち会ったものです。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。