場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第十六章 迷路〉1
安部公房『砂の女』
前田速夫
逃亡する自由

安部公房の『砂の女』(新潮文庫)は、今から半世紀以上も前の昭和三十七年(一九六二)に書かれた作品ですけれど、少しも古くなっていません。それまでの作品と較べると、ここへ来て、はっきりと現代、すなわち、現にここでこうして生きている私たちと同時代の作品が、彗星のように出現したという感じです。
当時から、きわめて斬新な、前衛的な作品との評がありましたが、私は今日量産されている多くの作品と較べて、遜色がないどころか、ずっと優れているとさえ言えると思います。勅使河原宏監督、主演岡田英次、岸田今日子で映画化され、カンヌ映画賞を受け、二十数ケ国で翻訳されて、国際的作家安部公房の名を一躍高からしめた作品です。
安部公房は、大正十三年(一九二四)、東京の生まれですが、翌年、医師の父に従い、満州の奉天に移ります。中学卒業まで奉天にいて、昭和十五年、十六歳のとき東京の成城高校に進学、その後東京帝大の医学部に入ります。昭和十九年十月、敗戦が近いという噂を耳にして、診断書を偽造し休学者になりすまして奉天に戻りますが、父は診察中にチブスに感染して病死し、その後の引き揚げや敗戦直後の生活などに筆舌に尽くせぬ苦労をしました。
昭和二十二年(一九四七)、『無名詩集』という題の詩集をガリ版刷で自費出版。また、小説『終りし道の標べに』を書いて、埴谷雄高、野間宏、花田清輝らと知り、「夜の会」を結成して、シュールレアリスムやアヴァンギャルドの運動に関心を持ちます。翌年、東大医学部を卒業しますけれども、医師への道は断ち、「近代文学」の同人になって、マルクス主義に接近。二十五年、『壁―S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞、以後作家生活に入ります。
受賞後の主な作品は、『飢餓同盟』『けものたちは故郷をめざす』『第四間氷期』『石の眼』『砂の女』『他人の顔』『榎本武揚』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』『笑う月』『方舟さくら丸』『カンガルー・ノート』、戯曲に『どれい狩り』『幽霊はここにいる』『友達』『棒になった男』『緑色のストッキング』など。平成五年(一九九三)一月、六十九歳で亡くなりました。
そこで、『砂の女』です。題辞は「罰がなければ、逃げるたのしみもない」となっています。初期の長編小説『けものたちは故郷をめざす』や『終りし道の標べに』がそうであったように、人を圧迫する共同体からの逃亡は、安部公房の一貫したテーマですが、罰とは何に対する罰だったのでしょう? 同作の主人公は、ニワハンミョウという砂地に棲息する昆虫を採集するために砂丘地帯を訪れた中学校の生物教師です。砂丘というトポスを形成する砂というものの性質について、こう書いてある。
《地上に、風や流れがある以上、砂地の形成は、避けがたいもの
かもしれない。風が吹き、川が流れ、海が波うっているかぎり、砂
はつぎつぎと土壌の中からうみだされ、まるで生き物のように、と
ころきらわず
かし確実に、地表を犯し、
その、流動する砂のイメージは、彼に言いようにない衝撃と、興
奮をあたえた。砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる
乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生
物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しが
みついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうし
さとくらべて、なんという違いだろう。
たしかに、砂は、生存には適していない。しかし、定着が、生存
にとって、絶対不可欠なものかどうか。定着に固執しようとするか
らこそ、あのいとわしい競争もはじまるのではなかろうか? も
し、定着をやめて、砂の流動に身をまかせてしまえば、もはや競争
もありえないはずである。現に、砂漠にも花が咲き、虫やけものが
住んでいる。強い適応能力を利用して、競争圏外にのがれた生き物
たちだ。たとえば、彼のハンミョウ属のように……
流動する砂の姿を心に描きながら、彼はときおり、自分自身が流
動しはじめているような錯覚にとらわれさえするのだった。》
で、昆虫採集に夢中になっているうちに、帰りのバスがなくなって、砂丘の穴の底に建つ家に案内され、泊めてもらいますが、そこには三十歳前後の女が一人で暮らしていました。
翌朝、帰ろうとして、縄梯子がはずされ、脱出不可能なことを知ります。それは村ぐるみの罠で、男は女と暮らして「砂掻き」することを強制される。このあたり、都会の日常の共同体から脱出しえたはずの男が、もう一つ別の共同体の罠に捕らえられていたという皮肉な展開で、共同体というものが本質的にはらんでいる悪意のようなものが伝わってきます。砂丘の穴の底とは、外部の人間にとっては一種蟻地獄のようなもので、これも洞窟やトンネルに似た、この作品が発見した新たなトポスです。
《砂………………
砂のがわに立てば、形あるものは、すべて
ただ、一切の形を否定する砂の流動だけである。しかし、薄い板壁
一枚へだてた向うでは、相も変らず、砂掻きをつづける女の動作が
つづいていた。あんな女の細腕で、いったい何が出来るというのだ
ろう。まるで、水をかきわけて、家を建てようとするようなもの
じゃないか。水の上には、水の性質にしたがって、船をうかべるべ
きなのだ。
その思いつきは、女が砂を掻く音の、奇妙に強制的な圧迫感か
ら、急に彼を解き放ってくれた。水の船なら、砂にも船でいいはず
だ。家の固定観念から自由になれば、砂との闘いに無駄な努力をつ
いやす必要もない。砂に浮んだ、自由な舟……流動する家、形のな
い村や町……》
新たなる場での女との生活といっても、愛だの何だのというロマンティックなものは、何もない。単に雌と雄、昆虫のような暮らしです。で、男は何度も脱出を試みます。一度はほとんど成功しかけたのに、頓挫する。いろいろあって、女が子宮外妊娠で病院に運ばれた日、縄梯子がそのままになっているのを発見して、今度こそ脱出の機会がやっと訪れたことを知り、梯子を上りますが、海が見えるところまで来たのに、なぜか男は脱出はせず、自らの意思で再び砂丘の穴に降りてゆき、穴の底に留まることを決意するところで、小説は終ります。
《女が連れ去られても、縄梯子は、そのままになっていた。男
は、こわごわ手をのばし、そっと指先でふれてみる。消えてしまわ
ないのを、たしかめてから、ゆっくり登りはじめた。空は黄色くよ
ごれていた。水から上ったように、手足がだるく、重かった。……
これが、待ちに待った、縄梯子なのだ……(中略)
穴の底で、何かが動いた。自分の影だった。影のすぐ上に、溜水
装置があり、木枠が一本、外れていた。女を搬び出すときに、誤っ
て踏みつけられたのだろう。あわてて、修繕のために、引返す。水
は、計算で予定されていたとおり、四の目盛りまで
した故障ではなかったらしい。家の中では、乾いた声で、ラジオが
何やら歌っている。泣きじゃくりそうになるのを、かろうじてこら
え、桶のなかの水に手をひたした。水は、切れるように冷たかっ
た。そのまま、うずくまって、身じろぎしようともしなかった。
べつに、あわてて逃げ出したりする必要はないのだ。いま、彼の
手のなかの往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書き
こめる余白になって空いている。それに、考えてみれば、彼の心
は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそう
になっていた。話すとなれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、
まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、男は誰かに打ち明
けてしまっていることだろう。
逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことであ
る。》
そして、本文が終わったあとに、「失踪に関する届出の催告」「審判」という家庭裁判所の事務的な文書を載せて、あたまのプロローグと照応させている。申立人は男の妻で、主文は「不在者 仁木順平を失踪者とする」。つまり、失踪から七年以上たっても生死が分からないとして、このような審判になったわけです。男は、おそらく砂丘の穴の底の集落に定住してしまったのでしょう。これが、『砂の女』という小説の皮肉な全体です。
では、作者はこの作品で何を言いたかったのでしょうか。砂丘の村に偶然にまぎれこみ、砂の穴に捕えられてしまった男は、ダルな日常、あるいは灰色の都市生活からの一時的な逃亡者です。逃亡はしてきたものの、それは一時的な避難、気晴らしに過ぎず、日常性を大幅に引きずっている。ところが、砂の穴の中で、砂の女と出会い、共同生活を始めたときから、男の中でそれまでの日常に依拠した感性は、どこかしら決定的に解体へと向います。それを、砂というアレゴリーを通して微細に、具体的に書いてゆく。たとえば、からからに乾ききった砂丘の底に、毛細管現象によって水が湧き出ることを発見するくだりなど、それが比喩であることを忘れさせてしまうくらいに、リアルに描かれます。
穴の底からの脱出を切望する男と、その生活に何の不自由も感じない女との対比、男の元の生活と、穴の底での生活の対比を通じて、男の求める自由が問い直されます。自由とはいったい何なのか。そして、一見その自由を拘束するかに見える他者とは、共同体とは、個人にとって何なのか。ラスト、男が脱出可能な時がきて、すぐ目の前に自由があると思えるその時になって、男は出口のない八方塞がりの閉鎖空間へと、自ら戻って行きました。それは、大いなる皮肉、パラドックスであると同時に、不可能を可能にした感動的な逆転のドラマというふうに読めば読めないこともありません。
いずれにしても、この作品が衝撃的なのは、作品の舞台である砂丘の穴の中の村が、都会とは別な意味で、現代を象徴するもうひとつのトポス、つまり異空間となりえていることです。こういう村が現実の世界にあるわけもない。けれども、小説の中では確かにあると思わせてしまう。それがフィクションの力です。それにしても、この皮肉でパラドキシカルなラストを、どう解釈するか。共同体とは何か。共同性とは何か。ここからは作者ではなく、これを手渡された私たち読者がよくよく考えてみなくてはならない問題です。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。