場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第一章 峠の空間と時間〉1
島崎藤村『夜明け前』
前田速夫
ひとすじの街道

《木曽路はすべて山の中である。あるところは
の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、
あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深
い森林地帯を貫いていた。》
島崎藤村『夜明け前』(新潮文庫)の有名な書き出しです。悠々とした大きな構えは、いかにも長編小説の書き出しにふさわしい。映画で言えば、はじめはロングで大写しにして、徐々に中心へと接近してゆく、あの手法です。
《東山道とも言い、木曽街道六十九
だ。この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にま
で続いて行っている。東海道方面を廻らないほどの旅人は、
て、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふとこ
ろにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来し
た。》
現在の国道十九号線で、すぐそばを中央高速道が通っています。古代東山道の道筋です。舞台となるのは、この中山道の峠に位置する宿場町、作者の生まれ故郷の馬籠。
《
る。西よりする木曽路の最初の入口にあたる。そこは
い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲りくねった山坂を
来るものは、高い峠の上の位置にこの
には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、
風雪を
らしい
々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている
を加えると六十軒ばかりの民家を数える。
中のかや、岩田、峠などの部落がそれだ。そこの
を待つ
の
もある。何となく西の空気も
言うまでもありません。宿場町のあるこの峠、深い森林地帯を貫く一筋の街道が、この作品のトポスです。山偏に上下と書いて峠。空間的な概念なのに、本作では題名の「夜明け前」が示唆しているように、時間の概念をも含みこんでいます。
時は幕末の動乱期から、維新を経て明治十九年まで。カメラはゆったりと対象に近づいてゆき、やがて一人の男の身の上に焦点が絞られます。主人公は青山半蔵。藤村の父親、島崎正樹がモデルです。本章では人間の一生がいかに緊密に場所と結びついているかを、半蔵の生涯を例に見てゆき、ついで峠というトポスが他の作品ではどのように扱われているかを考察します。
馬籠の本陣・庄屋・問屋の三役を兼ねる旧家の惣領として生まれた半蔵は、少年の頃から学問好きで、十六歳ごろからは村の児童を集めて、読み・書き・そろばんを教えました。二十三歳のとき、隣の宿場妻籠の本陣の娘お民と結婚しますが、この年(一八五三・嘉永六年)六月には浦賀に黒船が来航し、その噂はこの山深い土地にも、たちまち伝えられる。
青山家は尾州(愛知県)藩主のもとで年貢の取り立てを主とする宿場の行政と、街道を守って運輸・交通を円滑にする役目を担っていました。上層の支配者と下層の農民とをつなぐ立場にあったわけですが、安政三年(一八五六)、「牛方騒動」に遭遇し、時代はすでに下から動きだしているという認識に揺さぶられる。同年、半蔵は父祖の地、横須賀を訪ね、その旅の途次、江戸の平田鉄胤(篤胤の養子)の門をたたいて、平田派国学に正式の入門をする。
時代は進み、安政の大獄、井伊大老暗殺、公武合体と幕末の動乱が続く。和宮の行列が馬籠宿を通過するのを見て、深い感慨にみたされ、翌年十月、幕府は参勤交代の制度を改め、諸大名の家族たちは喜んで帰国の途につく。馬籠の街道を女中衆のはなやかな一団がいくつも通り過ぎるのは、幕府が内部から崩れかけていることを、如実に示すものでした。この月、半蔵は父の引退にともない、三十二歳で家督を継ぐ。
翌年、将軍家茂上洛、新撰組も上洛のため通行、京都では平田門の急進派が足利尊氏の首を抜きとって三条河原にさらすという事件が起き、その一味が幕吏の目を逃れて半蔵の家に匿われ、そこからさらに伊那に潜入。この間、京都のことを心にかけながらも、父の病気平癒祈願のため、王瀧村の御嶽神社の里宮に参籠します。
元治元年(一八六四)六月、半蔵は木曽十一宿庄屋代表三人の一人として道中奉行へ宿助成金嘆願のため江戸へ出、十月まで滞在して、やっと一宿あて百両の下付を取り付けて帰郷するものの、時代はますます目まぐるしく動いていました。大和での天誅組一揆、生野の変、天狗党の乱、禁門の変、第一次長州征伐、英・仏・米・蘭、四国連合艦隊による下関砲撃などなど。
これらの情報が、半蔵の耳に達しただけではありません。あの天狗党の面々が、西に向かう途次、家に泊まったりもする。しかし、その天狗党は翌年一月、敦賀で処刑されてしまう。尊攘派の壊滅です。尊王と攘夷とは、分けて考えるべきかも知れぬとの思いが、このとき半蔵の胸に兆します。
その後もいろいろあって、慶応三年十月、将軍慶喜は大政奉還を願い出る。十二月三日、王政復古。平田学を奉じてきた半蔵にとって、天皇の御親政は無上の喜びでした。ここまでが、第一部。
粗筋を紹介するだけでは能がありませんが、未読の読者のためにその流れを知ってもらいたいのと、幕府が瓦解し、明治の新政府が誕生して近代が始まるこの時期、民間はどのようであったかを作品化したのがこの長編なので、省略するわけにいきません。
過渡期
第二部は、慶応四年、鳥羽伏見の戦で幕を開けます。徳川慶喜は大阪城から江戸へ脱出し、敗軍の兵は街道を東へ東へと下っていく。二月、東山道先鋒を称する相良総三率いる赤報隊が通過。半蔵は一行のために心を砕き、献金までしますが、やがて赤報隊は偽官軍だったという噂が流れ、総三らは下諏訪で処刑される。
半蔵にとって、この木曽路の宿場に官軍を迎えることは、大きな感激だったのに、村民は、江戸幕府が倒れようと、御一新の世になろうと、いっこうに無関心で、政府への不満から一揆さえ起こす始末。それが半蔵には不思議でなりません。
明けて明治二年春、木曽福島の関所が廃され、各宿駅の問屋、年寄役も廃止されるなど、急激な変革の波が次々押し寄せ、父吉左衛門も中風の再発で七十一歳の生涯を閉じる。
世の中はさらに変わります。廃藩置県、学制の制定、太陽暦採用、徴兵令公布、東京・横浜間鉄道開通、郵便制度制定……。そして、明治五年、末子和助が生まれる。これが藤村(春樹)です。五月下旬、半蔵は福島支庁から急な呼び出しを受け、「戸長免職」を申し渡される。すべて官有林とされた林の一部を、以前のように村民が伐採することができるよう嘆願したことが、罰を受けたのでした。
農民一揆で百姓に失望し、木曽山林事件で政府に裏切られた彼の胸に、御一新の理想が消えてゆく無念さが重く澱む。山林運動に私財をつぎこんだことによる青山家の経済的破綻、娘お粂の婚礼を前にしての自殺未遂など家庭内の不幸にも打ちひしがれた半蔵は、上京して教部省に勤めますが、そこで見たものは西洋一辺倒の文明開化と平田派の没落でした。
時勢を憂慮した彼は、天皇の行列に自作の和歌を献じて逮捕される。釈放後、彼は家督を長男宗太に譲り、四十五歳の若さで隠居の身となり、飛騨国一宮の水無神社の宮司として赴任、四年後に帰郷すると、故郷はすかり変わっていました。翌十四年、十歳になった和助は、勉学のため上京する。十七年、半蔵は息子の宗太に強いられて誓約書を提出させられる。半蔵夫婦は隠宅に別居すること。衣食住のほか月一円の小遣い、本家に対しては一切口出ししない、他から借金したりして本家に迷惑をかけない、飲酒は日に五勺。これで手も足も出なくなります。
東京にいる和助に逢いたくなって、上京するが、ここでも彼は裏切られる。足かけ四年離れていた父子に、ほとんど会話はなかった。旅から帰ると眠れない日が何日も続き、この頃から異常な言動が目立ってきます。
ある日半蔵は、蕗の葉を頭にのせ、かつての菩提寺万福寺への道をたどっていました。間もなく寺の障子が燃えあがる。道々すれ違った村人が、様子がおかしいと後をつけてきたため、小火で食い止めたのでしが、「半蔵乱心」の噂はたちまち宿中に知れ渡る。
その結果は、親戚一同相談して、半蔵を座敷牢に閉じ込めることになる。正気のとき、彼はさまざまな書き物をして心を慰めますが、狂気は日を追って亢進し、明治十九年(一八八六)十一月二十九日、ついに座敷牢の中で息絶える。ラストは、墓堀りの場面です。
《でも、お師匠さまも惜しいことをした。もうすこしからだが続い
たら、あんな木小屋か出してあげられたんだ。そりゃ誰が何と言っ
たって、お師匠さまのような清い人はめったにない――あんな人を
俺は見たことがない。」
「そうだ、三郎さんの言う通りだ。せめてもう十年お師匠さまを
生かして置きたかったよ。」
勝重の嘆息だ。
その日には奥筋の方から着いたお粂等を迎えて半蔵の霊前に今一
夜語り明そうという
二人去りして、伏見屋主人や清助から若い弟子達まで元来た細道を
引き返して行ったが、勝重のみはまだそこに残って、佐吉等が墓穴
を掘るさまを眺めたたずんだ。
その時になって見ると、旧庄屋として、また旧本陣問屋としての
半蔵の生涯もすべて
ひとり彼の生涯が終を告げたばかりでなく、維新以来の明治の舞台
もその十九年あたりまでを一つの過渡期として大きく廻りかけてい
た。人々は進歩を
歩にも疲れた。新しい日本を求める心は漸く多くの若者の胸に
て来たが、しかし封建時代を葬ることばかりを知って、まだまこと
の維新の
あたりを支配していた。その間にあって、東山道工事中の鉄道幹線
建設に対する政府の方針はにわかに東海道に改められ、私設鉄道の
計画も各地に
も押し寄せて来る世紀の
ていた。勝重は師匠の口から
「わたしはおてんとうさまも見ずに死ぬ」というあの言葉を思い出
して悲しく思った。
「さあ、もう一息だ。」
その声が墓掘りの男達の間に起る。続いて「フム、ヨウ」の掛け
声も起る。半蔵を葬るためには、寝棺を横たえるだけのかなりの広
さ深さも要るとあって、掘り起される土はそのあたりに山と積ま
れる。強い
その鍬の響が重く勝重のはらわたに
また他の音が続いた。》
つまり、「夜明け前」、過渡期だったということです。「封建時代を葬ることばかりを知って、まだまことの維新の成就する日を望むことも出来ないような薄暗さがあたりを支配していた」と、書かれているのは、その意味です。
どうでしょう。これで「峠」というトポスが意味するものとその働きは、掴めてもらえたのではないでしょうか。峠とは読んで字のごとく、山を登りつめたところ、上りと下りの境目を意味します。境界に位置することから、道中の安全を祈って、神に「
黄泉の国の出口に出現した千引きの岩は、あの世とこの世を分かつ境目にありました。神社の鳥居は、聖域と俗域を分かつシンボルです。均質であるはずの空間が、なんらかの目安によって区分されるとき、そこに場所が生まれます。
本連載が扱うのは、大半は目に見える実在の場所ですが、観念や思想など、想像力や言語活動が生み出す目に見えない場所もあります。ルーマニアの宗教学者エリアーデは、次のようにも言いました。「空間は聖なる領域と聖ならざる領域とに分かたれる。空間が引き裂かれ、断絶を生じる、その断絶があってはじめて、世界の形成が可能となる。この断絶こそが、世界を方向づける固定点、そして世界の基礎をなす中心軸を産みだす。」(風間敏夫訳『聖と俗』法政大学出版局)
繋ぐにせよ、分かつにせよ、それは相対するものが異質だからこそ成立し、だからこそ、そこから新たな世界が形成される。つまり、文学空間とは、言葉によって、言葉のみによって形成された世界なのです。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。