場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第十三章 家族のかたち〉1
庄野潤三『夕べの雲』/小島信夫『抱擁家族』/よしもとばなな『キッチン』
前田速夫
孤独な父親

家族をめぐってのトラブル、悲劇が跡を絶ちません。家庭内暴力、離婚、シングル・マザーの急増、幼児遺棄、引き籠り、登校拒否、孤独死……。その様相は深刻になるばかりで、家族の漂流から家族の解体、崩壊へと突き進んでいるかのようです。どうして、このような事態に立ち至ってしまったのか。そして、この先、どうなって行くのでしょうか。
戦前の日本は、家族ではなくて、「家」が単位でした。島崎藤村の『家』は、一族からの経済的独立と夫婦の相互理解を基盤とする「新しい家」を作ろうとする三吉が、制度としての家に反撥しつつ、しだいに旧家意識または大家族制の結果としての血族結婚がもたらす暗い宿命的な血の流にからめとられてゆく物語でした。
敗戦後の日本は、戦勝国アメリカの指導で、さまざまな民主的改革を押し進めましたが、国民一人一人にとってそのもっとも目覚ましい変革の一つが、「家」ではなく、「家族」、つまり、一組の夫婦とその子供を単位とするというものでした。加えて、戦前は妻が夫以外の男性と関係を持つと姦通罪として処罰されましたが、戦後は男女平等の見地から、これが廃止されたことも、男女ともに意識の上で大きな変化をもたらしました。今日の夫婦別称、同性婚もこの流れで、法律という人工的な制度が、いかに私たちの日々の暮らしに食い込み、社会に大きな影響をもたらすものであるかを教えてくれます。
今日の家族のあり方から見れば、牧歌的とすら思える、庄野潤三の『夕べの雲』(講談社文芸文庫)は、いかにも戦後ならではの核家族のつつましい世界を描いています。その家族構成は、作家の大浦と細君、高校一年生の長女晴子、中学一年生の長男安雄、小学三年生の次男正次郎の五人。前作『静物』と同じですから、その続篇と考えていいでしょう。
前作では、父親、細君、女の子、男の子、小さい男の子だったのが、名前が与えられています。一家は三年前にこの多摩丘陵の丘の上に新しく家を建て、引っ越してきました。「萩」「終りと始まり」「ピアノの上」「コヨーテの歌」「金木犀」「大きな甕」「ミカデ」「山茶花」「松のたんこぶ」「山芋」「雷」「期末テスト」「春蘭」の十三章からは、季節の推移ごとに、一家の平穏な日常、子供たちの成長の様子が、互いの会話や的確な情景描写を通じて、しっくり伝わってきます。
いま、平穏な日常といいましたが、『静物』で夫の不倫に苦しんだ細君の自殺未遂が暗示されていたことを思えば、たとえつつましくはあっても、それを守り育てることが、当人たちにとって、どんなに大切なことかは思い半ばに過ぎます。
《今度の家は山の上にある。しかも四方が見渡せるところに一軒
だけたっている。四方が見渡せるということは、天に対して全身を
さらしているようなものであった。》
「天に対して全身をさらしている」とは、他に守ってくれるものはなく、みずからが治者たらざるを得ないことを明かしています。が、次の一節からは、大浦が大切に守っているはずのものは、いつ消えてしまうとも知れず、それが彼を不安にさせていることも読み取れます。
《日の暮れかかる頃に杉林のある谷間で安雄と正次郎の声が聞こ
えて来る。「もう夕御飯なのにいつまで遊んでいる気だ」と腹を立
てながら、大浦は二人を呼びに行く。そんな時、彼はつい立ち止っ
て、景色に見入った。
「ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子
供たちが帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風
に思い出すだろうか」
すると、彼の眼の前で暗くなりかけてゆく谷間がいったい現実の
ものなのか、もうこの世には無いものを思い出そうとした時に彼の
心に浮ぶ幻の景色なのか、分らなくなるのだった。
そこにひびいている子供たちの声も、幻の声かも知れなかった。
(いつも家の中で聞える子供たちの声や細君の声も、もしそんな
風に考えるなら、同じように彼の耳に聞こえた。)》
私は、入社して以来、長いことこの作家を担当しました。長編『引潮』の取材では、瀬戸内海の周防大島(民俗学者宮本常一の出身地)での元漁師の取材に同行しましたし、頂戴した原稿を抱えて帰るときは、いつも夫人が見送りに出てくれ、丘を下る坂道を曲がるときに振り返ると、いつも丁寧にお辞儀を返してくれたものです。
家族が崩壊する

戦後における家族をテーマにした作品としてもう一つ、小島信夫の『抱擁家族』(講談社文芸文庫)を逸することができません。大学講師の三輪俊介には、二歳年上の妻時子と高校生の良一、中学生のノリ子がいます。家政婦のみちよの妹の紹介で、ジョージという若いアメリカ兵が出入りするうち、時子がジョージと浮気していることを、みちよから聞かされます。
俊介は時子をなぐりつけますが、逆に「こういうときにあんたがわめいちゃ、だめよ」と言われてしまいます。普通なら、深刻な修羅場になるところなのに、二人の間では妙に醒めたやりとりが続きます。
「いろいろなことをしたのよ。あんたもそうしてよ」。俊介は何とか家庭を立て直そうと、別の土地で新しい家、セントラルヒーティングを備えたガラス張りの建物を建てることに情熱を燃やします。ところが、その時子は乳癌で死んでしまい、俊介の再婚ばなしが決まらないうちに、息子の良一が家を出てしまいます。
《「だんなさま、坊ちゃまは、家出なさいましたよ」
「家出?」
「玄関に音がしたので部屋に行って見ましたら、置手紙がありま
す。でも、坊ちゃまは、外へ出て苦労なさった方がいいですわよ」
俊介はみちよを押しのけるようにして、良一の部屋へ入って行っ
た。
それから窓からほとんど出て見たこともない暗い広いベランダを
眺めた。俊介の胸の動悸が高まってきた。階下へおりて行き、靴を
はいて外へ出ようとして、大きなガラス戸にぶつかった。客がドア
をまちがえたことがあったが、彼がまちがえたのは、はじめてだっ
た。
「こんどはノリ子が……」》
小説の終りでのシーンです。喜劇なのか、悲劇なのか、この何ともちぐはぐで、理不尽な状況は、読者に対して妙なおかしみを誘うだけではなくて、主人公俊介の胸に突き刺ささった痛みをも感じさせます。それは何故かというと、ここには戦勝国アメリカの侵入により、家族が崩壊し、一家の主としての権威を失い、個としての男女の結びつきのみで家庭を営まざるを得ない、その不安定と混乱とが、鋭くえぐり出されているからです。
文芸評論家の江藤淳がこの作品を『母の崩壊』で絶賛したことはよく知られていますが、続編の『うるわしき日々』(読売新聞社)になると、八十歳を越えた老作家(三輪俊介という名前だから、『抱擁家族』の主人公と同一)と、時々記憶がまだらになる七十代の妻ノリ子(『抱擁家族』での妻時子の後妻)が、アルコール依存症の果てに脳を損傷して記憶を喪失し、病院に入院したままで介護が必要な、五十四歳の息子良一(前妻との間の子ども)をめぐって苦労します。
《「先生、私はおっしゃることはその通り納得します。ただ私共
は……何分にも高齢ですし、それに何年にもわたって、ノイローゼ
気味で過ごしてきました。息子が、息子の妻が電話をかけてくるだ
けで、私どもは脅え、私の場合は
日も不整脈になり、眠れなくなりました。家内は先生にも診察を受
けさせましたが、夢遊病者のようになりました。息子の離婚が成立
してからは、すべて私どもが面倒を見てきたのです。家内はどうし
て私が、どうして私どもがと繰り返し
ういうようなことを申しあげるだけでも、私どもを身勝手だと思う
人がいないとも限りません。親としてのことを尽してこなかったか
らだ、という意味です。しかし私はこう思います。もし息子がたと
え三日間にしろ家へ戻ってきただけで、家内の病が進むことは、ま
ちがいないと思うのです。私のような人間でなければ、話が違うか
もしれません。それにほんとの母親が生きていればまた違うと思い
ます。それに嫁が、子供たちが……」》
そして、妻のノリ子さえも、このあと認知症を発症して、老作家は気の休まる時がありません。遺作『残光』には、その顚末がつぶさに描かれていて、身につまされます。
無化された家族

がらっと変わって、今度は新世代の作家吉本ばななの『キッチン』(新潮文庫)です。主人公の〈私〉は、桜井みかげという名前の大学生。両親がそろって若死にし、祖父母に育てられますが、中学へあがる頃、祖父が死んで、以後、ずっと祖母と二人の生活でした。けれども、その祖母もつい先日亡くなってしまい、天涯孤独の身で、いよいよ部屋探しをしなければならないというというところから、この小説は始まります。
住宅情報誌を眺めながらも、もう一つその気になれないでいたときに、祖母の葬式の手伝いをしてくれた田辺雄一という同じ大学に通う青年の訪問を受けます。彼は花屋でアルバイトしているとき、客の祖母と気があって、親切にしていたという男です。雄一は、「私」が困っているだろうからと、しばらく自分のマンションで同居してはどうかとすすめ、私はそれを素直に受けます。
結果的には、この田辺雄一に拾われたというわけですが、〈私〉は少しも卑屈になっていないし、雄一も恩着せがましくないところがいい。雄一は母一人子一人の暮らしで、美貌の母親えり子はバーに勤めています。実はこのえり子、妻を失った悲しみから整形を繰り返し、いまは女性になった父親雄司でした。血縁を失った者同士、その喪失の悲しみを共有する三人は、つかのま擬似家族のような、不思議な時間を生きます。それが、すこしもセンチメンタルにならず、ごく日常的な会話を通してクールに描かれてゆく。
天涯孤独という設定とか、性転換した人間を登場させたりとか、少女マンガ風といえばいえますが、それまでの重苦しい純文学とくらべると、ずっと肩の力が抜けていて、ごく普通の女の子の心の動きを表現する文章が、はっとするほど新鮮で的確です。吉本ばななという人を食ったペンネームに加え、実は有名な評論家吉本隆明の娘だったということもあって評判になり、一大ベストセラーになりました。その後も、『うたかた/サンクチュアリ』『TUGUMI』『哀しい予感』『白河夜船』『とかげ』『アムリタ』『不倫と南米』『ミトンとふびん』と多作で、イタリアをはじめ、海外でも人気の作家です。
平成になる一年前ですから、もう20年以上前。考えてみると、今日の若い女性作家の活躍と、新傾向の文学、そして読者の変質は、この吉本ばななの登場に影響されるところがまことに大きい。吉本ばななの文章のセンス、呼吸を知ってもらうため、冒頭の一節を読んでみます。
《私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。
どこのでも、どんなのでも、それが台所であれば食事を作る場所
であれば私はつらくない。できれば機能的でよく使い込んであると
いいと思う。乾いた清潔なふきんが何枚もあって白いタイルがぴか
ぴか輝く。
ものすごく汚い台所だって、たまらなく好きだ。
床に野菜くずが散らかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるく
らい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽く越せるような食料
が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかか
る。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目を上げ
ると、窓の外には
私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少
しましな思想だと思う。
本当に疲れ果てた時、私はよくうっとりと思う。いつか死ぬ時が
きたら、台所で息絶えたい。ひとり寒いところでも、誰かがいてあ
たたかいところでも、私はおびえずにちゃんと見つめたい。台所な
ら、いいなと思う。》
言うまでもなく、この台所が、この小説のトポスです。それを、題名では、台所とせずに、キッチンと片仮名で表現する、それがこの小説の現代性です。続きを読むと、確かにかつてあった家族というものが、すでに失われ、無化していることが、はっきり伝わってきます。
《田辺家に拾われる前は、毎日台所で眠っていた。
どこにいてもなんだか寝苦しいので、部屋からどんどん楽なほう
へと流れていったら、冷蔵庫のわきがいちばんよく眠れることに、
ある夜明け気づいた。
私、桜井みかげの両親は、そろって若死にしている。そこで祖父
母が私を育ててくれた。中学校へ上がる頃、祖父が死んだ。そして
祖母と二人でずっとやってきたのだ。
先日、なんと祖母が死んでしまった。びっくりした。
家族という、確かにあったものが年月の中でひとりひとり減って
いって、自分がひとりここにいるのだと、ふと思い出すと目の前に
あるものがすべて、うそに見えてくる。生まれ育った部屋で、こん
なにちゃんと時間が過ぎて、私だけがいるなんて、驚きだ。
まるでSFだ。宇宙の
葬式がすんでから三日は、ぼうっとしていた。
涙があんまり出ない飽和した悲しみにともなう、柔らかな眠けを
そっとひきずっていって、しんと光る台所にふとんを敷いた。ライ
ナスのように毛布にくるまって眠る。冷蔵庫のぶーんという音が、
私を孤独な思考から守った。そこでは、結構安らかに長い夜が行
き、朝が来てくれた。
ただ星の下で眠りたかった。
朝の光で目覚めたかった。
それ以外のことは、すべてただ淡々と過ぎていった。》
『満月』は、この『キッチン』の続篇。そこでは雄一の母親は、ゲイ・バーの客に殺されてしまい、雄一も天涯孤独になり、だいぶたってからそれを知らされて、〈私〉が彼に会いにゆくところから、小説が始まります。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。