場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈第五章 郊外の風景〉1
 国木田独歩『武蔵野』/佐藤春夫『田園の憂鬱』
前田速夫


   風景の起源 

 今は住宅地が建て込んでいて、駅の周辺は繁華街と化していますが、わりと最近まで東京の郊外に広がる田園地帯だった武蔵野を舞台とする作品を見てゆきます。
 国木田独歩は、明治二十九年九月から三十年四月まで、上渋谷(今の宇田川町あたり)に住んでおり、そのときに感じた詩趣を文章にしたのが、『武蔵野』(新潮文庫)でした。

  《日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れむと
 する、寒さが身に沁む、其時は路をいそぎ玉へ、顧みて思はず新月
 が枯林の梢の横に寒い光を放てゐるのを見る。風が今にも梢から月
 を吹き落としさうである。》

 では、この武蔵野のトポスのどこが、小説家を引きつけたのでしょうか。それも、作者が文中に述べています。

  《郊外の林地田圃(りんちでんぼ)に突入する処の、市街ともつかず宿駅ともつか
 ず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈し居る場
 処を描写することが、(すこぶ)る自分の詩興(しきょう)()び起すも妙ではない
 か。なぜ斯様(かよう)な場処が我等の(かん)()くだろうか。自分は一言にして
 答えることが出来る。(すなわ)ち斯様な町外れの光景は何となく人をし
 て社会というものの縮図でも見るやうな(おもい)をなさしむるからであ
 らう。言葉を換えて言えば、田舎の人にも都会の人にも感興を起こ
 さしむるような物語、小さな物語、(しか)も哀れの深い物語、或は
 抱腹(ほうふく)するような物語が二つ三つ其処(そこ)らの軒先に隠れて居そうに思
 われるからであろう。更らにその特点を言えば、大都会の生活の
 名残(なごり)と田舎の生活の余波(よは)とが此処(ここ)で落合って、(ゆるや)かにうず(、、)を巻い
 て居るようにも思われる。
  見給(みたま)え、其処(そこ)に片眼の犬が(うづくまっ)て居る。この犬の名の通って居
 る限りが即ちこの町外れの領分である。
  見給え、其処に小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分ら
 ぬ声を振立てて()()()女の影法師(かげほうし)が障子に(うつっ)て居る。外は夕闇(ゆうやみ)
 こめて、煙の(におい)とも土の臭ともわかち難き(かをり)(よど)んで居る。大
 八車が二台三台と(つづい)て通る、その空車(からぐるま)(わだち)の響が(やかま)しく起り
 ては絶え、絶えては起りして居る。》

 柄谷行人は、『日本近代文学の起源』の第一章「風景の発見」で、「風景とは一つの認識的な布置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽(いんぺい)されてしまう。明治二十年代の「写実主義」には風景の萌芽(ほうが)があるが、そこにはまだ決定的な転倒がない。それは基本的には江戸文学の延長としての文体で書かれている。そこからの絶縁を典型的に示すのは、国木田独歩の『武蔵野』や『忘れえぬ人々』(明治三十一年)である」として、次のように指摘しました。

  《ここには、「風景」が孤独で内面的な状態と緊密(きんみつ)に結びつい
 ていることがよく示されている。この人物は、どうでもよいような
 他人に対して「我もなければ他もない」ような一体性を感じるが、
 逆にいえば、眼の前にいる他者に対しては冷淡そのものである。い
 いかえれば、周囲の外的なものに無関心であるような「内的人間」
 inner man において、はじめて風景がみいだされる。風景は、む
 しろ「外」をみない人間によってみいだされたのである。》

 文中では一切語られていませんが、独歩がこの地に移り住んだのは、大恋愛の末に結婚した佐々木信子との新婚生活がわずか半年足らずで敗れた直後でした。したがって、武蔵野の荒々しい自然は、妻に逃げられて心に深手を負った彼が、気持ちを立て直すのにも寄与したことでしょう。ついでに言えば、独歩と別れたあと、アメリカに渡ったその佐々木信子をモデルに描いたのが、有島武郎『或る女』の主人公葉子でした。


  病める薔薇 

 佐藤春夫の『田園の憂鬱』(新潮文庫)は、同じ武蔵野でも、神奈川県の農村が舞台です。表題および、副題の「或は病める薔薇」が示しているように、この特異な散文詩風の作品は、「都会のただ中では息が(つま)つた。人間の重さで圧しつぶされるのを感じた。其処に置かれるには彼はあまりに鋭敏な機械だ、其処が彼をいやが上にも鋭敏にする」と書く主人公が、都会を逃れて、愛犬二頭と元女優の妻を伴って、萱葺屋根の家に落ち着くところから始まります。そのトポスを作者はこう表現します。

  《広い武蔵野が既にその南端になつて尽きるところ、それが漸く
 に山国の地勢に入らうとする変化――言はば山国からの微かな余情
 を湛へたエピロオグであり、やがて大きな野原への波打つプロロオ
 グででもあるこれ等の小さな丘は、目のとどくかぎり、此処にも起
 伏して、それが形造るつまらぬ風景の間を縫うて、一筋の平坦な街
 道が東から西へ、また別の街道が北から南へ通じて居るあたりに、
 その道に沿うて一つの草深い農村があり、幾つかの卑下(へりくだ)つた草屋
 根があつた。それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣に
 して、(たと)へば三つの(はげ)しい旋風の境目に出来た真空のやうに、世
 紀からは置きつ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押流
 されて、しよんぼりと置かれて居るのであつた。》

 しかし、都会のへりにあるこうした真空地帯に暮らしても、主人公の病的なまでに鋭い感受性は亢進するばかりで、近代の毒に当てられた詩人ならではの倦怠とデカダンが、全編に浸透します。

   《「おお、薔薇、汝病めり!」
  フェアリイ・ランドの丘は、今日は紺碧の空に女の脇腹のやうな
 線を一しほくつきりと浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に
 小さく聳えて末広に茂つた木の梢のところから、いとも軽々と浮い
 て出る。黄ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。何時か一日の
 うちに紫に変つた地の色は、あの緑の縦縞を一層引立てる。そのう
 へ、今日は縞には黒い影の絲が織り込まれて居る。その丘が、今日
 又一倍彼の目を牽きつける。》

 初出は大正七年(一九一八)九月。第一次世界大戦のさなかで、前月にはシベリア出兵が告知され、富山県では米騒動が勃発。大正デモクラシーに浮かれていたのも束の間、内外ともに暗雲が垂れ込めます。同月には前述したごとく武者小路実篤が宮崎県日向に「新しき村」を立ち上げますが、それもこうした時代背景があったからこそと了解できます。おまけに、新型コロナウィルスならぬスペイン風邪が上陸して、翌年にかけて三十五万人もの死者が出ました。この『田園の憂鬱』には、一切そのようなナマな時代背景は語られず、ひたすら作中の人物の心の鬱屈が描かれるのみですが、それだけになお、作者の病的なまでに繊細で孤独な精神が、ひしひしと伝わってきます。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。