場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈第四章 部屋の中〉2
 森茉莉『甘い蜜の部屋』/吉行淳之介『暗室』/
 古井由吉『栖』
前田速夫


   密室の愉楽 

 密室の愉楽という点では、森茉莉の代表作『甘い蜜の部屋』(新潮文庫)を抜かせません。

  《藻羅(モイラ)という女には不思議な、心の中の部屋がある。
  その部屋は半透明で。曇り硝子(ガラス)のような鈍い、厚みのあるもので
 出来ていて、モイラの場合、外から入って来る感情はみな、その硝
 子を透して、モイラの中へ入って来る。(中略)   
  その世界は、現実にあるような、曇った硝子ではない、完全に透
 明な、極度に薄い透明の向うにあって、(あか)い色でも、緑の色でも、
 みな上に綺麗(きれい)な透明を、(かぶ)っている。ちょうど自動車や自転車に附
 いている反射鏡(バック・ミラア)に映る草原や紅い煉瓦の街のように、世にも綺麗
 で、夢かと思うように恍惚(うっとり)とするものなのだ。》

 宇野浩二の『蔵の中』と同じで、第三者の介入を許さない、自分だけが気に入った世界に没入しています。モイラはぱあぱと呼ぶ貿易商の父林作(作者の実父鷗外の一面を想わせます)に溺愛されて育った、小悪魔的美女。「身近に来る男たちを自分の擒にすることに邪悪な歓びを覚える」モイラに、ピアノ教師アレキサンドゥルと、彼と男色関係にあるピータアとを配し、モイラとピータアの密会を知って、名義上は夫の天上守安(マリウス)が自殺するまでが描かれていますが、そうしたストーリーにさして意味はありません。むしろ、作者がエッセイの『贅沢貧乏』(新潮文庫)で書いていることの言語的実践であったと考えたほうが分かりやすい。

  《牟礼(むれ)魔利(マリア)の部屋を細叙し始めたら、それは際限のないことであ
 る。
  牟礼魔利は、自分の部屋の中のことに関しては、最新の注意を
 払っていて、そうしてその結果に満足し、独り満足の微笑(わら)いを浮べ
 ているのである。魔利の部屋にある物象という物象はすべて、魔利
 を満足させるべき条件を完全に、(そな)えていた。空罎(あきびん)の一つ、鉛筆
 の一本、石鹸(シャボン)一つの色にも、絶対にこうでなくてはならぬという
 鉄則によって選ばれているので、花を()れる人もないがたとえば
 貰ったり、紅茶茶碗、(さじ)洋盃(コップ)の類をもし人から貰ったとすると、
 それは捨てるか売るより(ほか)に、なかった。》

 つまり、作者は細部をすべて自分の趣味で染め上げることにしか興味はないので、この極端なナルシシズムが命なのです。ですから、それに少しでも違和を感じれば、たちまち罅が入ってしまう、ガラス細工のようなものと言っていいでしょう。


  暗い部屋 

 その時々での女との性の交渉が主題の吉行淳之介『暗室』(講談社文芸文庫)も、密室での愉楽の要素を欠くわけではありませんが、読み味はまるで違います。十年前に妻を亡くした小説家の中田修一は、生け花を教える二十八歳の多加子、二十二歳で良家の娘マキ(レスビアン)、そして定職を持たずにパトロンに養われている夏枝の三人と交渉を続けています。けれども、多加子は結婚して去り、マキも中田の子を宿してアメリカに去る。残ったのは、生活臭がなく、結婚願望もない、もっぱら官能の世界に浸る夏枝で、中田は彼女の肉体におぼれて、その「暗い部屋」に通います。

  《朝になっていた。カーテンにできていた隙間(すきま)から、明るい光
 が、平べったい薄い板のように射し込んできている。その光を眺め
 ながら、夏枝の部屋をおもった。昼間でも、分厚いカーテンを隙間
 なく閉ざした薄暗い部屋である。
  「これから、どういう具合になるのだろう」
  いろいろの考えが、私の頭に浮んで消えた。一つだけはっきりし
 ているのは、今日もあの薄暗い部屋へ行くことだ。
  夏枝のいる建物の口をくぐると、空気の中に微かに夏枝のにおい
 を嗅ぎ取る。いまの夏枝の軀には、においは無いといえる。しか
 し、官能を(そそ)ると同時に、物悲しい気分にさせるにおいが、微かに
 漂っている。階段を昇り、長いコンクリートの廊下を歩いてゆく。
 においはしだいに濃くなってゆく。それは、私にしか分らないにお
 いに違いない。やがてそのにおいが、鼻腔の中で()せるほどの濃さ
 になる。
  そのとき、私は夏枝の部屋の前に立っている。扉のノブを握る。
 その向うには暗い部屋がある。》

 筋らしい筋はなく、物語性は放棄されているのに、屋根裏で隠れて暮らす低能の兄妹の話とか、腹を上にして池の底に横たわる百五十匹のメダカとか、飛行機の窓から見おろした、歯の生えた女陰のような島など、要所に配された断片と断片が乱反射して、読者はどこか無気味で倒錯的な気分を喚起され、それが暗室のイメージへと受け渡されます。この暗室は、森茉莉のように自分が気に入ったものだけで作りあげた人工の密室とは違って、いつ自分を陥れるかもしれない、いつまでも馴染むことのできない、暗い罠のような空間です。


  共同性の回復  

 そして、古井由吉の『杳子・妻隠』(新潮文庫)の『杳子』は、下山の途中で深い谷で身動きのできなくなっていた杳子と出逢って恋愛関係に入った青年が、彼女を精神の失調から救い出そうとする物語でしたが、その続編ともいえる『妻隠』では、若い二人が郊外の新開地で新婚生活を始める。いわば徳田秋声『新世帯』の現代版といったところですが、題名が『古事記』のスサノオがクシナダヒメと新居をかまえたときの歌、「八雲立つ出雲八重垣妻隠に」から採られていることからも推測されるように、はるか遠い古代の民俗とも通底しています。
 これが『栖』(新潮文庫『聖・栖』所収)になると、ヒジリの風習が残る川原の小屋に住んでいた佐枝と都会で再会した男が、『妻隠』同様に郊外の新開地に所帯を持って、そこを栖に生まれたばかりの赤ん坊を育てていく危うげな様子が、次のように表現されます。

  《まどろみの中で訝ることがあった。なぜ、佐枝が狂うとき、子
 はかならず眠っているのだろう。子が起きているときには、なぜ、
 母親は昏睡しているのだろう。子の眠りの満ち干を、母親として、
 おのずと心得ている、あるいは母親の心の狂いと子の眠りを同じ力
 が支配している。しかし考えてみれば、いつでも佐枝が身を起すと
 同時に、岩崎が目をひらくわけではない。たった一人、佐枝が目覚
 めている間が、わずかながらある。佐枝はすっと身を起し、瞳をす
 でにゆらめかしながら、子の寝顔を見つめる。また狂おうか狂うま
 いか、思案している。子に囁きかける。子も目をひらいて答える。
 母子ふたりして、眠る男の顔を眺める……。》

 ここには、現代人が心の奥深くでどんなに衰弱し、病んでいるかが認識されているのと同時に、他方で、それを乗り越えるのに、若いふたりが何とかしなくてはと努力している姿がじっとりと伝わってきます。古代にあった共同性は、現代でどう可能なのでしょう。作者が提出しているこの問題は、此の世で私たちが生を紡ぐことの本質に直結しています。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。