場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈第十四章 職場での日々〉1
 黒井千次『聖産業週間』/伊井直行『さして重要でない
 一日』/村田沙耶香『コンビニ人間』
前田速夫


  労働と生活の分裂 

 おおかたの勤め人にとって、家庭は単に寝に帰る場所といっていいくらいで、私たちが一日の大半を過ごすのは、職場です。ところが、戦前のプロレタリア小説を除くと、この職場が小説で真正面から取り上げられることは、まずありませんでした。
 それには理由があって、研究所や工房や個人商店など一部を除くと、どのような性格の職場であれ、もはや労働の喜びや仕事の喜びとは無縁で、組織の上下関係のもとで本来の自分を押し殺すことが当たり前になっていたからでしょう。けれども、いくつか例外があって、黒井千次の初期から中期にかけての作品は、徹底して職場やサラリーマンを題材にしています。
 黒井は東京大学経済学部を卒業後、富士重工業に就職、四年半の伊勢崎製作所勤務を経て、本社に転勤、その後十年間サラリーマン生活を送り、筆一本の生活に入ったのは、三十八歳のときでした。新聞記者や編集者、あるいはテレビ関係者など、マスコミ・広告業界出身の作家は珍しくありませんが、彼のような純然たる大企業出身の作家は、いまでもそう多くはないはずです。
 一例として、『聖産業週間』(講談社文芸文庫『時間』所収)を見てみましょう。主人公は、〈ぼく〉のすぐ先輩の田口運平。彼はある日を境に、猛然と働きはじめ、その突然の変化に、〈ぼく〉も周りの人間も、戸惑い、呆気にとられ、奇異の念を抱かされます。

  《「大丈夫ですか。」はたして課長が冷やかすように田口運平を
 見た。田口運平の身体の中に言葉が急激にふくらみかえるのがわ
 かった。彼は激しく音をつまらせたが、それが出て来た時はほとん
 ど叫び声だった。
  「……自分の……仕事を、課長は愛したことはないのですか。」
  「愛する?」田口運平に怒鳴られた形になった課長が、とりあえ
 ず相手の言葉を繰り返すことによって態勢を立てなおそうとしてい
 るのがぼくにははっきりわかった。課長は出来ることならばその大
 げさな言葉をわざとらしくとり出し、皆の前で振ってみせることに
 よって笑いのうちに事態を処理しようと考えたのに違いない。事
 実、ぼく等のうちの一人は確かに声を出して笑いはした。しかし、
 それは他の者にはひろがらなかった。
  「女房を愛しているか、ときかれると困るようなもので……」課
 長は逃げようとした。
  「困りはせんでしょう。私は自分の家庭を愛しています。女房を
 愛しています。」田口運平は喰い下った。その横顔には、何か黒く
 濁った力が内側からにじみ出ている。ぼくは笑おうとする自分の顔
 が途中でこわばるのを感じた。
  「それは、私だって……ね。ただ、改まって言われると、さ。」
  「改まって答えればいいのです。……私は、今、自分の仕事を愛
 しています。愛する以上、血が流れたり、涙が出たりするのは仕方
 がないでしょう。」
  「大げさだね。あなたが出来るならそれでいいですよ。私は日程
 と作業工数の関係を心配しただけです。」
  「やりますよ。これはやらなければ仕方がない。」言い終ると、
 田口運平は腕を組んで自分に頷いた。》

 課長の指示で、田口が残っている限り、残るようになった〈ぼく〉は、彼のノートに次の文章を見つけます。四歳になるわが子が隣家の男児との取組み合いに負け、口惜しさから泣きながら後を追いますが、途中から急に怒りの力が退き、その怒りを誤魔化して他のものにすり替えてしまったことを目撃し、わが子に対するその怒りが、突如、自分自身に対する怒りへと転化したとして、このように記してあったのです。

  《賭けることを避け、熱中を逃げているのは、私自身ではなかっ
 たか。仕事に対する自らの取組方への些かの後ろめたさを、単に冷
 やかなる傍観的態度を取ることによって誤魔化していたに過ぎぬの
 ではなかろうか。私の中には、今にして思えば、絶ゆる事もない熱
 中への〈飢え〉があった。〈飢え〉は、今も私の身体の中に熱く
 息づいている。誤魔化しに誤魔化しを重ねながら、潜在する〈飢
 え〉をあやしあやし、遂に私は今日まで生きて来たといえる。手摺
 は切れた。最早、自らの身体を、自らの力で支えて進む他はない。
 意識のどこかで、私は常にそれを感じ続けて来たといえる。
  ――私の中に、遠い潮騒の響きのように響いて来る一つのイメイ
 ジがある。口に出すのも恥ずかしい程、単純で素朴なイメイジが。
 定かではないが、そのイメイジが誕生したのは、私が今の生活に身
 を投じ、無意識のうちにでも、最早、この先、現在というものを充
 たす外に、先に招いている重い目的等というものは存在しないと感
 じ始めてからではなかろうか。それは、人間の意識がまだ草のよう
 に健やかで、石のように強固であった時代における労働のイメイジ
 である。全ての筋肉の力を振り絞り、扱いにくい農具をあやつり、
 土を起し、種子を振り蒔き、草を刈り、羊を殖やし、旱魃には天を
 仰いで雨を乞い、嵐には地に伏して神を求め――それ等の中にある
 ほとんど物のような確実な労働のイメイジ。》

 猛烈な仕事を始めて一週間後、運平は予定していた作業のすべてを終え、分厚い作業報告書を提出します。しからば、彼は〈賭け〉に成功したでありましょうか。答えは否です。再び彼のノートから引きます。

  《恐れずに書こう。私は、遂に自分の作業に没入することが出来
 なかった。私は遂にあの潮騒の響きを聞くことが出来なかった。
 (中略)思うに、これは、労働と生活との分裂、あるいは均衡の失
 墜なのであろうか。》

 つまりは、これが田口運平の「聖産業週間」の結論だったわけです。


  凡庸の代名詞 

 黒井千次と同世代で、「内向の世代」の作家と呼ばれた、阿部昭、後藤明生、高井有一らは、作家生活に入る前に勤め人の経験(ただしマスコミ関係)がありますが、なかで坂上弘は、最後までリコー勤務を続けて、『優しい停泊地』『田園風景』『啓太の選択』などで、勤め人の生活を丹念に描いていたことが特筆されます。
 けれども、ここでは次に、彼らよりひと廻り以上若い、しかも「聖産業週間」とは逆の、伊井直行『さして重要でない一日』(講談社文芸文庫)の場合を見てみましょう。
 表題が示しているように、ここにはどこの職場でもありそうな些事、ありふれた日々が、シニックというのでもなくて、どこか投げやりに、突き放した態度で綴られてゆきます。たとえば、こんな具合です。

  《彼のその朝六本目の電話。
  「どちらの佐藤さんですか?」と電話を取った女が言う。
  「人間のサトーだよ」と彼は答えた。
  「え?」
  「なめても甘くない、人間の方のサトー」
  「なんだ、佐藤君か。朝からつまらないシャレ。体の調子でも悪
 いんじゃない?」
  「機嫌が悪いだけ」
  「へえ。で、課長に何か用事?」
  「もう出ちゃったの?」
  「九時になると同時に」
  「何時に戻る?」
  「四時から会議なんでしょ。それまでには戻るって」
  「あのさ、その机の上に、厚目のコピーの束、置いてない?」
  「え? うん、あるよ。これ、佐藤君が作ったの?」
  「そう。八ページから先、ページがばらばらになってるだろ?」
  「あ、ほんとだ。どうしちゃったの?」
  「機械がいかれてた、俺はそれに気づかなかった、読みやすいよ
 うにと思って綴じてあげた、確認しないまま昨日の夜のうちに配っ
 た、飲み屋の椅子に座ったら嫌な予感がして来た、自分の分のコ
 ピーを開いてみた。御覧のとおり」
  「脱落してるページがあるみたい」
  「鋭い観察。それなのに、コピーの原本がどこかに行方不明で
 ね。俺の手元にあるのも不完全版」》

 仕事上のミスが発覚し、営業部員なのに〈彼〉は、課長の命令でこの日は罰として会社に留まって、その修復に悪戦苦闘します。上役の病気が課内にもたらすプレッシャー、そこに絡んだ社内恋愛的な要素、オフィス内の知られざる謎の空間。どれも常套的でありながら、いつしか常套からはぐれ、ずらされてゆく。そこに独特のユーモアが生じて、この作の読みどころになっています。
 巻末の「著者から読者へ」で、作の意図がこう語られます。

  《会社員は長く凡庸な人生の代名詞として扱われて来た。「平凡
 なサラリーマン」という常套句は、そのことを示している。私はそ
 うした常套句の向こう側にある会社員のありようを小説にしたいと
 思った。二つの作品(『さして重要でない一日』と『星の見えない
 夜』)は、その最初期の試みである。
  「さして重要でない一日」では、会社員を主人公とした小説を書
 くこと自体が私にとって実験だった。もう一つの実験は、主人公を
 会社の内に閉じこめ、ずっと仕事をしている状態にしておいたこと
 だ。会社員を主題に小説を書く参考として読んだ「サラリーマン小
 説」では、驚いたことに、仕事の場面がほとんど書かれていなかっ
 たので、でないものにしようと考えたのだ。》

 ちなみにこの作者には別に『会社員小説』という本もあって、先輩作家である黒井千次や坂上弘の代表作を論じ、海外の作品ではカフカの『変身』やメルヴィルの『バートルビー』をも、「サラリーマン小説」として取り上げて、次のように指摘しているのは興味深いことです。

  《グレゴールは、家庭に、会社員のまま――自然人ではなく法人
 として――目覚めてしまったのだ。家庭では会社員―法人は異物で
 あり、その異物性が「甲虫」として表現されている。固い殻の身体
 は、脱ぐことのできなくなった鋼鉄製の()()()()()()である。》

  《哲学者のジル・ドゥルーズは、バートルビーから「未来の、あ
 るいは新しい世界の〈人間〉」の出現が期待できると書いた。確か
 に、メルヴィルは、当時はまだ存在しなかった「未来の人間」を描
 いている。ドゥルーズは認めないかもしれないが、それは会社員の
 ことである。》

 ちなみに、バートルビーは法律事務所に雇われた代書人。依頼に対して、「〜しないほうがいいのですが」と答えるだけで仕事はせず、最後は食事も拒んで刑務所で息絶えます。


  コンビニ人間の新しさ 

 ところが、同じ職場を描いた小説でも、村田紗耶香の『コンビニ人間』になると、まるで雰囲気が変わります。主人公の〈私〉(古倉)は、三十六歳。十八年前に初めてレジにたった、ベテラン女性店員です。

  《「古倉さん、すごいね、完璧! 初めてのレジなのに落ち着い
 てたね! その調子、その調子! ほら、次のお客様!」
  社員の声に前を向くと、かごにセールのおにぎりをたくさん入れ
 た客が近づいてくるところだった。
  「いらっしゃいませ!」
  私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈し、かごを受け
 取った。
  そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだっ
 た。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品として
 の私が、この日、確かに誕生したのだった。》

 コンビニは品揃えからお客への応対その他、すべてがマニュアル通りで、これ以上ないほど均一であるところに特徴があります。およそ小説の主舞台になるのに、これほど不似合いな場所(トポス)はなく、そこで働く店員にしても、格別変わったことや面白いことがあるとは思えません。それなのに、主人公の古倉は嬉々としています。「世界の正常な部品」になれたことが、どうしてこんなに嬉しいのでしょう。
 もともと、彼女は、幼稚園時代、公園で死んでいた小鳥を、「お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」と言って母親を絶句させた、奇妙がられる子でした。その規格外の子が、コンビニでは活き活きしている。別に皮肉でも諷刺でもありません。そこが、衝撃なほど新しいのです。
 この古倉は、婚活が目的でやって来たサイテー人間である新人の白羽と同棲し、彼を飼い始める。ところが、白羽はのらくらしてはいるが、結局は「普通の側の人間」でした。で、古倉はいっときコンビニを辞めていたものの、最後は白羽と別れてコンビニに戻ります。

  《「絶対に後悔するぞ、絶対にだ!」
  白羽さんはそう怒鳴って、一人で駅の方へと戻って行った。私は
 (かばん)から携帯を取り出した。まずは面接先へ、自分はコンビニ店員
 だから行くことはできないと伝えて、それから新しい店を探さなく
 てはならない。
  私はふと、さっき出てきたコンビニの窓ガラスに映る自分の姿を
 眺めた。この手も足も、コンビニのために存在していると思うと、
 ガラスの中の自分が、初めて、意味のある生き物に思えた。
  「いらっしゃいませ!」
  私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出し
 ていた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞
 える。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮
 膚の中で(うごめ)いているのをはっきりと感じていた。》

 いや、なんて怖ろしい。これではまるで、ドイツ市民がナチスのヒットラー・ユーゲントに惹かれていった心情とスレスレです。にもかかわらず、もはやここにしか、現代人の再生する場所はないと、作者が言っているように読めてしまえます。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。