場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第十二章 異国にて〉2
開高健『夏の闇』/堀江敏幸『河岸日月抄』
前田速夫
剥離と滅形

開高健『夏の闇』(新潮文庫)。ヴェトナム戦争の最前線に派遣された作家は、「ただ見るだけ」の存在となって、戦場の悲惨と向き合いました(前作『輝ける闇』)。九死に一生を得て、今は自己を喪失したままヨーロッパを彷徨する彼は、パリと思しき都会で、かつて関係のあったいわくつきの女と十年ぶりに再会します。
《「私、まだ見られる?」
とたずねた。
指のすきまからこちらを見ている。
「もちろんだ。おいで」
ふいに重量が走った。
女は暗がりをかけ、ベッドにとびこむと、声をあげてころげま
わった。朝の体は果実のように冷たくひきしまり、肩、乳房、下
腹、腿、すべてがそれぞれ独立した小動物のようにいきいきと躍動
し、ぶつかりあい、からみついてきた。広い胸に鼻を埋めようとす
ると女が長い腕をあげてはげしく抱きしえた。冷たい、しっとりし
た膩のしたから熱が放射され、それが爽やかな湯のように私の胸に
しみとおった。私は女の腕をゆっくりときほぐすと、ベッドに膝を
ついて身体を起した。昔いつもそうしていたように女の手をベルト
にみちびいた。女はぶるぶるふるえながらはずそうとしたが、途中
でやめてしまい、
「待ってた。待ってたの」
うめいてたおれた。》
以後、膿んだ夏のあいだじゅう、中年に達した男女はひたすら性に溺れ、食べて、眠るだけの、爛れた日々を送ります。作者はその虚無的で自己が剥離し崩落した姿を、他の作品(『なまけもの』など)で〈滅形〉と呼んでいますが、それがこの作で頂点に達しています。
《私は自身をすら愛していないのかもしれない。女のいうとおり
だ。自己愛をとおして女を愛することもできないのだ。私は自身に
おびえ、ひしがれていて、何かを構築するよりは捨てることで自身
に
うものはないと、いつか、女にいったことがあるように思うのだ
が、旅がなくて通過があるだけのこの時代には出発は廃語でしかあ
るまい。また一ヵ月、瞬間と
抱いて女と暮らしていかなければならないのだろうか。ベッドに呑
みこまれてじりじりと肥りつつ葉に蔽われ、
して、体液の乾いた粉にまみれていなければならないのだろうか。
私とかさなりあった地帯では女は
老巧な猟師だった。ほとんど指一本あげる手間もかけずに女は風の
そよぎだけで私をかぎつけ、
めてしまった。しかし、自身とかさりあわない地帯については何も
感知できないかのようだ。私をひきずりこもうとしている力は過去
からくるが、その経験を私が話したのに、木の葉一枚のそよぎもつ
たえられなかったように感じられる。(中略)私は空瓶に言葉を吹
きこんで栓もしないで海へ投げたような気がした。事実だけを列挙
するとしてもそれはおしゃべりにすぎない。おしゃべりはおしゃべ
りである。かさねればかさねるだけいよいよそれは遠ざかり、朦朧
となった。言葉はみな虫食いになっていた。指紋でよごれた孤独が
おぼろに胸や肩のところにひろがっていた。》
結局、作者自身、このあとこうした重度のニヒリズムと自己嫌悪の淵から脱することができず、「闇」三部作の最後『花終る闇』は、未完のまま残されました。釣りやグルメやワインなど、晩年になっても人気の衰えぬ開高健でしたが、『ロマネ・コンティ・一九三五年』『玉、砕ける』など、珠玉の短編小説を除くと、あれほど才能に恵まれた作家なのに、晩年の長編小説は印象がぼけます。
私はこの作家が、筆者が勤務していた出版社の別屋で何か月も缶詰になりながら、一行も書き出せずに苦吟していた姿を何度か目撃していて、あるときは近くの居酒屋に逃亡するのに付き合わされて、深夜まで痛飲したことがありました。あり余る文才を持てあまして、どこか不完全燃焼のままに生を
水上の時間

「海にむかう水が目のまえを流れていさえすれば、どんな国のどんな街であろうと、自分のいる場所は河岸と呼ばれていいはずだと、彼は思っていた。」と始まるのは、新世代の堀江敏幸が書いた『河岸日月抄』(新潮文庫)です。
《歩いていても立ち止まっていても、水は彼に音のあるめまいを
引き起こし、視線を下流へ下流へと
があるのかを教えてくてる者は、誰もいない。知りたければみずか
らの足で確かめればいいのだが、どの河のどの河岸と特定しなけれ
ば、流れの先の風景など結局は想像の
はないか。いま彼は、その埒の外に置かれた河岸にいる。そう、た
だ河岸にいる、とだけ言っておこう。水が水自身を持ち運ぶよう
に、彼は彼自身の河岸を自由に移動させるのだ、現実のなかだけで
なく、地上からは見えない
セーヌ河と思しき、とある河岸(慎重に固有名詞は避けられている)に係留された平底船に住むことになった主人公は、古い家具とレコードの並ぶ部屋で本を読み、時折訪れる郵便配達夫らと語らいの時を持ちます。「ひとと接するのが嫌いだからでも、社会的な良識とやらをかいているからでもなく――すくなくとも自分では欠いていないと彼は信じていた――、たんにひとりでいたかっただけなのだ。たんにそういう時間と空間を求めてここまでやってきたのだから。」
なんという心の贅沢でしょう。これも、作者が発見した貴重なトポスです。虚無と苦悩にのたうちまわる、開高健の『夏の闇』の世界とは対照的で、この作者の気負いのない、それでいて精妙にものごとを見定める、柔らかな眼差しと感性が新鮮です。
動かぬ船内での静謐な日々。ゆるやかに流れる時間に身をまかせながら、それでも男はどこか見知らぬ場所へ運ばれていきます。小説の主題は、異国が舞台である必要は少しもありません。それでも、これが日本国内のどこかの川であっては、さまにならない。前四作がそれぞれ異国を舞台にしたことが必然であったように、やはり異国だからこそ成立する文学空間なのでしょう。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。