場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈序章 記憶がよみがえるとき〉1
 夏目漱石『硝子戸の中』/古山高麗雄『小さな市街図』/
 後藤明生『挟み撃ち』
前田速夫


   硝子戸の中から  

 最初にとりあげる夏目漱石の『硝子戸の中』(岩波文庫)は、大正四年一月十三日から翌月の二十三日まで、朝日新聞に連載された回想風の随筆です。この年、漱石は四十八歳。直後『道草』を連載し、翌年の十二月、『明暗』執筆中に亡くなります。

 《硝子戸(ガラスど)(うち)から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉(ばしょう)だの、赤い実の
 ()った梅もどきの枝だの、無遠慮(ぶえんりょ)に直立した電信柱だのがすぐ眼に
 着くが、その(ほか)に是といって数え立てる程のものは(ほと)んど視線に
 入って来ない。書斎にいる(わたくし)の眼界は(きわ)めて単調でそうしてま
 た極めて狭いのである。
  その上私は去年の暮から風邪(かぜ)を引いて殆んど表へ出ずに、毎日こ
 の硝子戸の(うち)にばかり(すわ)っているので、世間の様子はちっとも分
 らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり()
 たりしてその日その日を送っているだけである。
  しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の
 中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の
 中とを隔離しているこの硝子戸の(なか)へ、時々人が入って来る。それ
 がまた私に取っては思い掛けない人で、私の思い掛けない事をいっ
 たりしたりする。私は興味に()ちた眼をもってそれらの人を迎えた
 り送ったりした事さえある。
  私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。》

 明治四十年四月、漱石は朝日新聞社に入社しますが、生活を保証された代りに、小説やエッセイなど、主要な原稿は同紙に掲載することが義務づけられました。この『硝子戸の中』もその例で、前年には第一次世界大戦が起きて、日本も参戦、多事多難なこのときに、紙面に閑文字を連ねることには遠慮があって、こうして自分の心に訴えるもののみをこつこつと書いてゆく、そこに私は作家漱石の覚悟を見る思いがします。すでに胃潰瘍が悪化していたので、体調はすぐれず、このようなつぶやきも聞かれます。

 《不愉快に()ちた人生をとぼとぼ辿(たど)りつつある私は、自分の何時(いつ)
 一度到着しなければならない死といふ境地について常に考えてい
 る。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じ
 ている。
  ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事も
 ある。
  「死は生よりも(たつ)とい」
  こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
  》

 ここだけ読むと、いかにも沈痛でペシミスティックですが、漱石の真骨頂は続く次の一文です。

 《しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖
 父母、私の曾祖父母(そうそふぼ)、 それから順次に(さかの)ぼって、百年、二百年、
 乃至(ないし)千年万年の間に馴致(じゅんち)された習慣を、私一代で解脱(げだつ)する事が出
 来ないので、私は依然としてこの生に執着(しゅうじゃく)しているのである。
  だから私の(ひと)に与える助言(じょごん)はどうしてもこの生の許す範囲内に
 おいてしなければ済まないように思う。どういふ風に生きて行くか
 という狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人(いちにん)として()の人類
 の一人に向わなければならないと思う。既に生の中に活動する自分
 を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、(たがい)の根
 本義は如何(いか)に苦しくても如何に醜くてもこの生の上に置かれたもの
 と解釈するのが当り前であるから。》

 そして、いま私がこの作品に改めて注目するのは、幼時漱石が養子に出されたときのことが出てくるからです。

 《私は両親の晩年になって出来たいわゆる末ッ子である。私を生ん
 だとき、母はこんな年歯(とし)をして懐妊するのは面目(めんぼく)ないといったと
 かいう話が、今でも折々は繰り返されている。
  単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちる
 と間もなく、私を里に()ってしまった。その里というのは、無論私
 の記憶に残っているはずがないけれども、成人の(のち)聞いて見ると、
 何でも古道具の売買を渡世(とせい)にしていた貧しい夫婦ものであったらし
 い。
  私はその道具屋の我楽多(がらくた)と一所に、小さい(ざる)の中に入れられて、
 毎晩四谷(よつや)の大通りの夜店に(さら)されていたのである。それを或晩(あるばん)
 の姉が(なに)かのついでに其処(そこ)を通り掛ったとき見付けて、可哀想(かわいそう)とで
 も思ったのだらう、(ふところ)へ入れて(うち)へ連れて来たが、私はその()
 どうしても寐付(ねつ)かずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいう
 ので、姉は大いに父から(しか)られたそうである。
  私は何時頃(いつごろ)その里から取り戻されたか知らない。しかしじきまた
 ある家へ養子に遺られた。それは(たしか)私の四つの(とし)であったように
 思う。私は物心(ものごごろ)つく八、九歳まで其所で成長したが、やがて養家(ようか)
 に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀(しぎ)となっ
 た。》

 どこまでも客観的に抑えた書き方をしていますが、いかなる事情があったにしろ、二度までも養子に出されたことは、幼い漱石を深く傷つけたに相違なく、そのことが彼をして人間存在の根源を問うことに向かわせたといって過言ではありません。成年となってからも、そのトラウマが()えたとはいえず、たびたび顔をそむけたくなるような幼時の記憶と対面させられたはずです。無理に大脳に憶えさせようと努力する暗記は、すぐに忘れてしまいますが、夢や記憶は、自意識のコントロール外にあります。それだけに、心の奥底にまで食い込んでいて、その働きはトポスと変わらないと思います。
 この漱石は、無名だった中勘助の『銀の匙』(岩波文庫)を、朝日新聞の連載に推薦しました。漱石が激賞した、「品格の備わった文章」と「純粋な書き振り」とは、次のようなものでした。

 《私の書斎のいろいろながらくたものなどいれた本箱の抽匣に昔か
 らのひとつの小箱がしまつてある。それはコルク質の木で、板の合
 せめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはつてあるが、もとは舶
 来の粉煙草でもはひつてゐたものらしい。なにもとりたてて美しい
 のではないけれど、木の色合がくすんで手触りの柔いこと、蓋をす
 るとき ぱん とふつくらした音のすることなどのために、今でも
 お気にいりの物のひとつになつてゐる。なかには子安貝や、椿の実
 や、小さいときの玩びであつたこまこましたものがいつぱいつめて
 あるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて
 忘れたことはない。》

 この銀の匙は、病弱な私の口へ薬を含ませるために、私を育てることだけを唯一の楽しみとして生きていた伯母が、どこかから探しだしてきたものでした。以後、漱石が「子どもの世界の描写として未曾有のものである」と評した幼年時代の思い出がこまごまと綴られていきますが、この銀の匙こそ、他人からは疎まれがちな作者にとっては、何ものにも代えがたいアラジンの魔法のランプなのでした。


   失われた記憶  

 時代は飛びますが、記憶を主題にした作品で私が感銘を受けた近年の作に、古山高麗雄の『小さな市街図』と後藤明生の『挟み撃ち』とがあります。『小さな市街図』(講談社文庫)は、朝鮮半島北部の旧日本人町新義州の市街図作りを思い立った男の物語です。人口一万人の小さな町ですから、白地図はすぐにも埋まると思ったのに、やってみると、容易な作業でないことがわかる。そこで、中学校の同窓会のメンバーに、左の書面を出します。

  《前略
  益々御清栄の事と存じます。
  早速ですが実は私 朝鮮新義州の地図を作らうと思ひまして曾て
 同地に在住の皆々様に一筆献上申上げる次第で御座居ます 貴方様
 が新義州に居られたときの町名番地及び向三軒両隣は誰方でありま
 せうか 何屋さんでありましたでせうか 御手数乍ら略図を添へ
 て御返答下さいますよう御願い申上げます
  朝鮮人町支那人町までは手が届きませんがせめて内地人町だけは
 当時の模様を復元致したく存ずる次第で御座居ます
  私達が懐しい新義州を訪れる日が再び巡り来る事は御座居ますま
 い 国際情勢を案ずるに今や私達の新義州は近寄り難い幻の街であ
 ります なにせ新義州は北朝鮮だからであります しかも同地は朝
 鮮戦争の折もう爆撃を蒙ったといふことでありますから最早私達在
 住当時の姿は跡形もない事で御座居ませう しかし乍ら皆々様の御
 協力を得ますれば新義州の市街図復元は不可能では御座居ません 
 そして市街図完成の暁には複製を制作して皆様の御手許に届ける所
 存で御座居ますが、 これこそ又とない思ひ出のよすがとなるもの
 と存ずる次第で御座居ます
  折返の御返事を御待申揚げます
                            頓首》

 二度と訪れることのかなわぬ幻の街、幼少期を父母兄弟や友人と共に過ごしたあの懐かしい新義州は、いまやそこで暮らした人々の記憶の中にしかないのです。けれども、その記憶というのがそもそも曖昧で、作業はなかなか進捗しません。我が意を得たりと懐旧の手紙を寄越し、新義州の町並を詳しく教えてくれた女性もあれば、なかには、「新義州などなつかしいどころか、思っただけで癪のたねだ。新義州が苦しさ悲しさの町でしかない者もゐる。協力なんかまつぴらだ」という返事を寄越す人もいる。そのときの男の感慨は次のようなものです。

 《あの葉書には気勢を殺がれた。しかし、この人の怒りも、赤羽寿
 美さんの懐旧も、なにもかもそのうちになくなってしまうのだ、と
 久治は思った。四十代、五十代というのは、ポプラ会員のうちで
 は、若いほうだと言っていいのである。終戦当時、五十代だった人
 は、もう八十代だし、四十代の働き盛りが、今では七十歳である。
 当時三十代の人でも、六十歳だ。だから、ポプラ会の人は、毎年、
 どんどん死んでいく。新義州の人が死ねば、新義州の思い出もなく
 なる。もう十年たち、さらにまた十年たてば、おれだって死んでい
 るかも知れない。それはともかく新義州を思い出す人は、たちまち
 半分になる。そのうち三分の一になり、やがて、あの町も、山田長
 政が住んだタイの日本人町と同じように、歴史の本に残るだけにな
 る。新義州だけではなく、大連も、奉天も、京城も、元山もだが、
 そこに日本人町があったという史実だけになる。》

 この小説が発表されたのは、昭和四十七年(一九七二)。半世紀も前ですから、当時二十代の人が、七十歳になる勘定です。作者の古山高麗雄も、とうに亡くなってしまいました。いま日本は、北朝鮮による核ミサイル攻撃の脅威にさらされており、新義州は、存在したことさえ忘れられています。記憶もそうですが、人間の歴史とは何と儚く頼りないものか。しかし、この男がそうであるように、それを思い起こそう、自分自身のうちに甦らそうと努力することは、かぎりなく尊い。
 後藤明生の『挟み撃ち』(講談社文芸文庫)も、朝鮮から引揚げた男が主人公です。ひとりの男が、お茶の水駅の橋の中ほどに立っています。彼は、二十年前に着ていた旧陸軍の歩兵用外套の行方が気になって、一日がかりであちこち訪ね歩いたあとでした。男は橋に佇みながら、その失われた外套について、彼自身の過去について思いめぐらす。
 その外套は二十年前、大学受験のためにはじめて上京したとき着ていたもので、植民地時代の朝鮮や敗戦による引揚げの思い出にも繋がるものでした。外套の探索は、当然のことながら、こうした自分の過去の記憶を溯行する行為と重なりますから、それは自己を見つめ直してゆく物語となるはずでした。
 ところが、妙なことに、この小説はそうなっていない。そうなりそうになると、たちまち別の要素が侵入してきて、立ち塞がります。外套を探そうと、当時一年余りを過ごした蕨町の下宿先と質屋を訪ねますが、下宿先のおばさんの勘違いから友人の久我を思い出した「わたし」は、質屋に寄って再訪を約束してから、久我の職場に向う。久我は、娼婦のヨウコさんを教えてくれた男です。
 そのかん行く先々で、当時のこと、敗戦直後の「わたし」のことが、突然降ってわいてくるように思い出されもしますが、なにもかもが偶然であって、過去の記憶といっても、現在の「わたし」の頭にいつでも取り出される必然的なものではなく、相互に何の関係もない。質屋に戻って、おばさんに外套の行方を質しても、行方まではわからなかった。
 小説の冒頭、「わたし」がお茶の水の橋の上に佇んでいたのは、山川という男と会うためでした。時間は夕方の六時少し前。そして、最終章でも、そのことに変りはない。つまり、時間はいっこうに進んでおらず、外套の行方も分からないまま。結局、この小説のタイトルが示しているように、「わたし」は、小説の始まりと終りに「挟み撃ち」されて、宙ぶらりんなままなのです。
 すなわち、この小説は、しかるべき起源が存在し、次にしかるべき過程が存在し、そして現在があるといった線条的な歴史感覚を攪乱させ、ゴーゴリが無くした外套の行方を追う主人公を笑いとばしたように、「わたし」を笑うしかありません。実際、「わたし」の知らぬ間に、「歩兵の本領」の歌詞は労働歌に変わり、入学を夢見ていた陸軍幼年学校は不意に消滅して、ある日自分のいる場所が突然外国になってしまったのでした。

 《昭和七年にわたしが生れて以来、とつぜんでなかったことが何か
 あったでしょうか?いつも何かがとつぜんにはじまり、とつぜん終
 り、とつぜん変わらなかったでしょうか?》

 したがって、この男にとっては、記憶といっても、とつぜん、偶然に思い出されるものであって、意味を持たない。というより、記憶を取り戻すには、それを阻害するものと戦わなければなりません。
 近代以前の、時間がゆっくり流れていた時代にはあり得なかったことで、これは近代に特有の悲劇(喜劇?)なのでしょう。でも、この男は、それが虚しいと知りながらも、必死に思い出そうとしている。私が共感するのは、そこです。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。