場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈はじめに〉
前田速夫


 世界の底が抜けてしまったようです。ハムレットの台詞ではありませんが、関節がはずれてしまったといってもいい。人と人は分断され、孤立し、確かなものがひとつもありません。私たちは、いったいどこから来て、いまどこに居て、どこへ往こうとしているのでしょうか。
 ピークアウトしたとはいえ、いまだ終息をみない新型コロナウィルスの世界的な蔓延は、個々の人間がなんとも無力な存在で、私たちの社会が、人間関係が、いかに脆いものの上に成り立っていたかを改めて教えてくれましたが、といって、そのことにどれほど深刻な反省が加えられたかはあやしい。相変わらず私たちは、ますますスピードを速める時間に追い立てられながら、がっちりと囲いこまれたシステムのなかで右往左往し、システムからはずれてしまえばそれで終わりというふうに、慌ただしく虚しく、その日その日を消費しています。
 渦巻く政治不信。経済の停滞。格差拡大。環境悪化。自然災害。そして核戦争の脅威。その一方で、私たちは情報洪水の海にも溺れかかっています。テレビ、新聞、雑誌、パソコン、スマホ、SNS、チャットGTP。こうしたなかに、いったい何ほどの真実があるというのでしょう。私たちが発する言葉にしても、そうです。どこまで、本当のことが言えて、それが相手に伝わっているでしょうか。しっかり受けとめてもらえているでしょうか。
 電車に乗っていても、家にいてさえも、面白くもなさそうな顔をして、スマホやパソコンと向き合う、人、人、人。社会全体が空洞化して、一億総記憶喪失、一億総思考停止の状態に陥ってしまったのです。
 いま、私たちに求められているのは、IT社会やAI社会への備えより何より、どうしてこのような悲惨な事態になってしまったのか、根本から反省し、これからどうすればよいのかを真剣に考えることではないでしょうか。
 それにはまず手始めに、私たちの親や、すぐ前の時代を生きた人々が、これまで歩んできた歴史に思いを馳せ、つい最近まで確かだった、共通の記憶を取り戻すことが大切です。そして、そのためのもっとも重要な手掛かりになるのが、文学作品に表れた「場所」であると、私は考えます。

 《隠された場所がわかれば、隠されたものはたやすく見出される。
 それと同じように、十分な議論をしようとすれば、われわれはその
 場所、つまり、その問題についての論点の所在を知らなければなら
 ない。それゆえ、トポスを、議論の隠されたところとして定義でき
 る》

 こう指摘したのは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスでしたが、場所(トポス)は、言語表現、言語活動の拠点として重要な働きをするだけではなくて、私たちの記憶と不可分な点がきわめて大切です。
 筆者は以前、『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』(平凡社)という本を著して、『古事記』から『南総里見八犬伝』まで、個々の古典作品のなかで、場所がどのような働きをし、それがいかにして人間を支え、励ましてきたかを検証しました。
 それは、近現代を扱う本連載でも、基本的には変わりません。場所が失われれば、記憶が失なわれ、記憶が失われれば、時間も失われて、過去も現在も未来も存在しえません。私たちの精神が空洞化し、いま世の中全体が記憶喪失の状態に陥っているのは、私たちが依拠しているはずの場所を見失って、目の前のことにしか関心がなく、歴史や民俗を軽視し、文学を蔑視したことの、当然の結果です。
 ひところ、識者のあいだで、ポスト・モダンといったことが、しきりに取り沙汰されたことがありました。したり顔に文学はもう終わった、もはや「小さな物語」しか書くことは残されていないと触れ回った文芸評論家やジャーナリストの、何と多かったことでしょう。折も折、私はそうした時代に、日陰者とされた純文学雑誌で、歯を食いしばりながら、孤塁を守ってきた者の一人です。
 定年退職後は、在野の一民俗学徒に転身したこともあって、文学の世界からは足を洗ったはずの筆者ですが、何もかもが無し崩しにされていく現在、いまここで文学が踏ん張らなければ、未来永劫取り返しがつかなくなるという思いを禁じ得ません。
 文学はいつどこであっても変わらぬ人間の生活や、心の動き、誰しもが共有する根源的な生の在りかたを問い、追求しているところにこそ価値があると、それは十分承知したうえで言うのですけれど、反面、私たちが現に呼吸している同時代や、さらにその先までをも映しだす鏡としての機能も持っていて、それが私たち読者にとっては大きな魅力となっています。
 実際、私たちがこうして暮らし、暮らしてきた社会や人間のこと知ろうとした場合、それを如実に示してくれるのは、歴史学でも心理学でも社会学でもない。まして、政治学や経済学では、網の目が粗すぎます。どんなに詳細なレポートや研究でも、人々の息づかいや心の動きまでは目に見えてきません。
 けれども、『源氏物語』や『世間胸算用』や『坊っちゃん』に向えば、私たちは立ちどころに、その時代の空気はもちろん、作中人物の思いや一挙手一投足まで知ることができる。同一人物になりきることさえできて、現代に近づけば近づくほど、いっそう身近なものとなります。
 本連載が各章で扱う場所は、観光地でもなければ、個々の人間の生の営みを離れて抽出された抽象的な空間でもありません。そこは、人々が注意深く生活を重ねた土地や区域で、歴史性と共同性が宿っています。
 私たち一人ひとりは、均一で無重力の空間に放り出されて、ただ浮き沈みしているのではありません。優れた文学は、私たちの過去の記憶を、()()()()()にしてくれます。見えなくされていた大切なものを、思い出させてくれます。それが、文学に埋め込まれたトポスの力です。物語の力です。私たちが生きる力は、そこから湧いてきます。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。