場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第十章 洞窟とトンネル〉2
川端康成『伊豆の踊子』『雪国』/村上春樹『ねじまき鳥
クロニクル』
前田速夫
トンネルの向こう側


《道がつづら折りになって、いよいよ
頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私
を追って来た。
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、
き、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目
のことだった。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そ
して朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々
や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸を
ときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を
打ち始めた。折れ曲った急な坂道を駈け登った。ようやく峠の北口
の茶屋に辿りついてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすく
んでしまった。余りに期待がみごとに的中したからである。そこで
旅芸人の一行が休んでいたのだ。》
川端康成の『伊豆の踊子』(新潮文庫)は、二十歳の一高生〈わたし〉が、伊豆の一人旅の途中で、男一人、女四人の旅芸人の一行と出会うところから始まります。なかに、太鼓を抱えた、目の美しい踊り子がいました。彼女は十四歳。その清純な姿に心を惹かれた彼は、一行と天城から下田まで同道します。物語の始動がトンネルを挟んでいることに注意してください。
《トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道が稲妻
のように流れていた。この模型のような展望の裾の方に芸人たちの
姿が見えた。六町と行かないうちに私は彼等の一行に追いついた。
しかし急に歩調を緩めることも出来ないので、私は冷淡な風に女達
を追い越してしまった。十間程先きに一人歩いていた男が私を見る
と立ち止った。
「お足が早いですね。――いい
私はほっとして男と並んで歩き始めた。男は次ぎ次ぎにいろんな
ことを私に聞いた。二人が話し出したのを見て、うしろから女たち
がばたばた走り寄って来た。》
こうして、トンネルの外へ出ると、いよいよ小説の世界が開けてくるという仕掛けです。これは、『雪国』(新潮文庫)の有名な冒頭、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」も、同じですね。境界のこちら側は、日常の世俗の世界。向こう側が、小説でしか表現できない、非現実の美の世界。すなわち、向こう側(異界)こそが川端文学のトポスです。
島村という無為徒食の男が、雪深い温泉町の駒子という芸者に惹かれて、数年のあいだたびたび訪れる。積極的に彼女をどうしようというのでなく、それが徒労であることを知りながら、自分を人生上の葛藤の外に置いて、悲しいまでに真剣な駒子や、彼女よりもっと若くて危険で張り詰めた生き方しかできぬ葉子という娘の中に、瞬間的に現れる美の追求者としてふるまうところに、この作品の世界は成立しています。
雪の精を感じさせるような駒子や葉子の描き方――省略や曖昧なぼかしによって、かえって肉感的なふくらみを与える技法、その象徴的な表現の妙味は、はじめから冴えわたっています。
《もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をい
ろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行
く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあ
せるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうち
に、この指だけは女の触感で今も
き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて
いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこ
に女の
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、
映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんの
かかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は
夕闇のおぼろな流れで、その二つが
徴の世界を描いていた。
ともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が
だった。》
列車の窓が鏡になって、そこに写ったのは、これから会いに行く駒子ではなく、その妹の葉子のほうでした。しかし、両者が二重写しで現れたように、ふたりの存在は、島村にとって等価です。というより、合わせ鏡になっていると言うべきでしょうか。
設定だけからすれば、親譲りの財産で、西洋のダンスについて翻訳紹介しているというキザな似非インテリの、旅先の芸者との情事という、不潔でありふれた、鼻もちならない三文通俗小説になりかねないところが、決してそうはなっていないのはなぜかを、考えてみてください。
なぜでしょうか。そのわけは、何と言っても作者の繊細で研ぎ澄まされた美意識によるところが大きい。島村もそうですが、島村以上に駒子も葉子も、現実の生活において避けがたくある凡庸さ、愚劣さ、退屈さと、懸命に闘っています。そして、そこにはどこか作者の「孤児の感情」に培われた虚無感、現世放棄の思念も伴っていて、透明な悲哀と戦きとが伝わってきます。
別世界への通路



トンネルの向こうに別世界が広がるのは、宮崎駿監督の人気アニメ『千と千尋の神隠し』も同じです。そして、作中に旧満州へと通じる井戸が埋め込まれた、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫)も、小説の構造としては同じと考えることができます。
主人公は、三十歳を機に法律事務所を辞め、人生の休暇期間としてハウスキーパーをしている岡田トオル。飼猫が消えたことに始まって、奇妙なことが次々に起こり、やがて些細なことで言い争いをしたあと、妻のクミコが失踪します。
作者が描くこれまでの主人公は、どちらかといえば受動的で、何とはない喪失感や心の傷をかかえながらも、現実と深くかかわることを避け、その独特のデタッチメントの姿勢が、スマートで都会的で、今日の多くの若い男女の共感を呼んできたことは、ご承知のとおりです。しかし、この作品ではトオルの家のそばの空家の庭に涸れた古井戸があって、その存在を笠原メイという少女に教えられた彼は、その井戸の底に籠り、自分の置かれている状況やこれまでのことについてさまざまに思い、悩むうちに、それまでのデタッチメントからコミットメントへと転じます。
すなわち、一編の小説中の構造としてのみならず、作者自身の転回を鮮やかに印象づけたのが、作中に深く穿たれたこの「深い井戸」と、その先にある通り抜けのできる壁でした。笠原メイはトオルにこう言います。
《「そういうのをメスで切り開いてみたいって思うの。死体を
じゃないわよ。
こかにあるんじゃないかって気がするのね。ソフトボールみたいに
鈍くって、やわらかくて、神経が麻痺してるの。それを死んだ人の
中からとりだして、切り開いてみたいの。いつも思うのよ、そうい
うのって中がどうなってるんだろうってね。ちょうど歯みがきの
ペーストがチューブの中で固まるみたいに、中で何かがコチコチに
なってるんじゃないかしら。そう思わない? いいのよ、返事しな
いで。まわりがぐにゃぐにゃとしていて、それが内部に向かうほど
だんだん硬くなっていくの。だから私はまず外の皮を切り開いて、
中のぐにゃぐにゃしたものをとりだし、メスとへらのようなものを
使って、そのぐにゃぐにゃをとりわけていくの。そうすると中にい
くにしたがって、だんだんそのぐにゃぐにゃが硬くなっていって
ね、最後には小さな芯みたいになってるの。ボールベアリングの
ボールみたいに小さくて、すごく硬いのよ。そんな気しない?」》
深い井戸に降り立ち、通り抜けのできる壁の先に拡がっていたのは、現実の世界からは行きつけない闇の世界でした。妻のクミコが囚われていたのが、その暗黒世界で、トオルはその支配者である義兄の綿谷ノボルの手から彼女を取り戻そうとするのが表のストーリー。けれども、そこで生々しい迫真力をもって語られるのが、間宮中尉がノモンハンで戦友が目の前で皮を剥がされた体験であり、ナツメグの父親が関わった新京の動物園での動物射殺の光景であるのは、なぜでしょう。村上春樹が小説の中でこうした過去の歴史的事実に立ち入るのはきわめて稀で、逆に言うと、そのためにも涸れた古井戸と通り抜けのできる壁が、作中に要請されてきたといえそうです。
ノモンハン戦争(一九三九)は、旧満州と旧ソ連との国境にあるハルハ河を挟んで行われた局地戦で、五月から九月にかけて日本側は二万人におよぶ死者が出ました。関東軍司令部は補給を無視した作戦を前線に敢行させ、ソ連軍の圧倒的な部隊に壊滅させられると、司令部は責任を隠蔽するため、生き残った将兵は口封じに南方の最前線に追いやられました。
この戦争は合理性を無視した日本軍の作戦の致命的な欠陥を露呈しましたが、その教訓は何一つ生かされず、太平洋戦争では同じ失敗が繰り返されました。作者がこのノモンハン戦争に強く惹かれるようになったのは、プリンストン大学の図書室でそれに関する書籍を何冊も読んでいるうちに、この戦争の成り立ちが「あまりにも日本的であり、日本的であったから」だと、『辺境・近境』(新潮文庫)という紀行文集に収められた「ノモンハンの鉄の墓場」のなかで述べていますが、その先ではこうも書いています。
《戦争の終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和
を(もっと正確にいえば
我々は日本という国家を結局は破局に導いたその
近代的なものとして打破しようと努めてきた。自分の内なるものと
しての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力
ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに
単純に物理的に排除した。その結果我々はたしかに近代市民社会の
理念に基づいた効率の良い世界に住むようになったし、その効率の
良さは社会に圧倒的な繁栄をもたらした。
にもかかわらず、やはり今でも多くの社会的局面において、我々
が名もなき消耗品として静かに平和に抹殺されつつあるのではない
かという漠然とした疑念から、僕は(あるいは多くの人々は)なか
なか逃げ切ることができないでいる。僕らは日本という平和な「民
主国家」の中で、人間としての基本的な権利を保証されて生きてい
るのだと信じている。でもそうなのだろうか? 表面を一皮むけ
ば、そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念
なりが脈々と息づいているのではあるまいか。僕がノモンハン戦争
に関する多くの書物を読みながらずっと感じ続けていたのは、その
ような恐怖であったかもしれない。この五十五年前の小さな戦争か
ら、我々はそれほど遠ざかってはいないんじゃないか。僕らの抱え
ているある種の
かに向けて激しい勢いで噴き出すのではあるまいか、と。》
こうした問題意識があったからこそ、実際にノモンハンを訪ね、現地を取材したわけでしょうが、それを小説のなかで展開し、定着させるには、それに見合った作家的成長と工夫が必要で、それだけ時間がかかったのです。
つまり、作中の涸れ井戸は、主人公の「僕」=岡田トオルが、監禁されている妻のクミコを取りもどすために降り立ってゆく、――イザナミに会いに黄泉国の窟を潜るイザナギ、あるいは妻エウリディケーを救い出すためにやはり死者の国に降り立つオルフェウスを連想させます――そういう通路であると同時に、それは満州での作戦にからんで生死を分けた本田老人、間宮中尉とも繋がっている。現代での話だけでなく、それと複雑にからみあった過去の歴史をも導きいれる重要な装置、それが涸れ井戸というトポスだったわけです。
ついでに言うと、村上春樹の作品にはしばしば井戸が登場することは、多くの論者が指摘しています。『風の歌を聴け』の「火星の井戸」、『1973年のピンボール』の「井戸掘り職人」、『ノルウェイの森』の「草原の井戸」など。また、『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』におけるエレベーターも、異界への入口になっています。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。