第3回 21世紀に咲き残るデカダンの華
異端の画家、金子國義氏の“部屋”が銀座に出現した。場所はギャラリー本城。明かりを落としたホワイトキューブを、作品ばかりか、洋雑誌や女優のピンナップ、陶器、オブジェ、アンティークの照明など、優美さをたたえたアイテムたちが彩る。虚実入り交じるさまざまな側面で語られてきた金子氏が、少年の面影を残すアンニュイな表情でゆっくりと自らを話しはじめた。
●現在の日本のアートシーンで金子先生の存在は異彩を放っていますが、他の画家たちとの違いについて自覚されていることはありますか?
あまり考えないようにしていますね。考えると描けなくなっちゃうじゃないですか。画家は自分の作品を語る人と語らならない人と二通りあると思うんですけど、僕は後者の方なんですよ。だって、ダヴィンチなんかにしても、その作家はもういないわけですからね。観て、感動するかしないかだけですよ。
●今回の展示テーマ「部屋」は金子先生の発案ですか?
そうです。自分の部屋を再現しようと。なにしろ、最初に絵を描きはじめたきっかけが、部屋を居心地のよい空間にするために自分の絵で飾ろうと思ったわけですから。はじめての個展も、澁澤(龍彦)さんに薦められたわけで、最初は画家になろうなんていう発想自体なかったんですよね。
●熱烈なファンや、先生が画家になったきっかけを知っている方にとっては特に興味深いテーマだと思いますが、実際に展示されてみてどうですか?
けっこうイメージに近くなりましたね。僕はけっこう会場作りをするのが好きで、こうしたいというのはすぐに決まってしまいます。ここにテーブルを置いて、ここに明かりを置くと。
●映画女優のピンナップや洋雑誌までありますね。
映画を観たり、読書に耽るのが好きでね。それか
らお芝居も好きだし。そういう中からけっこう絵のアイデアも浮かびます。(ブリジッド)バルドーなんかを観ちゃうと描きたくなるし。バルドーのいい時代があったんですよ。子どものときは寝る前に女優さんの顔を描いたりしていました。30年、40年経っても好きなものは変わっていないですね。
●現在でも古い作品に創作意欲を掻き立てられたり、インスピレーションを受けることが多いんですか?
多感な時代ってありますよね。少年時代に覚えたものっていうのはずっと変わらない。僕はかわいいものが好きだし、それでいて“辛口”の映画なんかも好きなんですよ。例えば、溝口健二やビスコンティーの映画だったりね。そうすると、ジャンルこそ違いますが、そこまで次元を高めたいという気になって、真剣に描かなければいけないなと思ったりします。
●絵を描くとき、モチーフのストックはあるんですか?
あるパリの女流画家が「キャンバスがどういうものを描くか語りかけてくれる」と言っています。詩的ですよね。僕もそうなんですよ。本当はコンテでもって下絵を描けば早いんですけどね。僕の場合はいつも顔から描いてしまう。顔を仕上げてから、それで手はこっちがいいだとか、足はこっちに入るという絵のバランスを考えていくんです。一人足りないと思ったらそこに入れるし、そういう描き方なんですよ。
●一つの作品を制作されるときに何をゴールにしているんですか?
かっこよさとか、とっぽいとか、かわいいとか、色気とかを醸し出すことですね。美しさやいい顔というのは、人類がはじまって以来、決まっていますからね。だから美しいものは残りますよ。聖なるものの美しさ。それを目指しています。醜いものは嫌いですね。
●言われてみると、描かれている人物たちの鼻や眉のあたりに、仏像彫刻のような美しさを感じます。
それは父が仏画を描いていたからかもしれない。父とは感受性が同じだったんですよね。父は信仰心がものすごく強くて、その影響はあるでしょうね。中尊寺の弥勒菩薩や興福寺の阿修羅が好きで、特に阿修羅は何枚も描いていましたね。僕も阿修羅像に近いものを描きたいと思っています。
あれがいい顔だと思っているんですけどね。
●意外ですね。
ええ。父は一週間に一回、大森の僕の住まいに来るのが楽しみで、絵を描いては持ってきてくれました。今回その仏画を展示しようとも思ったんですよ。無駄話ですけど、女親だとこう手をさすり合うじゃないですか。男親っていうのはスキンシップが日本人はないわけですが、父親が大森に来て帰ろうというときに触りたいっていうね、その気持ちが伝わってきて体で感じたの。なんていうんでしょう、自分の子どもを抱きしめたいというような。それで、僕の筆が細くなって捨てようと言ったら、それを全部持ってゆく。絵具もチューブがなくなってもう捨てちゃおうかしらと思うと、それを持って帰っていって、それで描いていたんです。それって愛情表現ですよね。その点は恵まれていましたよね。
●先生のそういう繊細な感受性も魅力なんでしょうね。長年にわたり熱狂的なファンがいて、愛され続けている理由をどうお考えですか?
わかりません。どうしてみんな来てくれるのかしら、と思って不思議なくらいですよ。ただ、やはりかわいい顔が描けたとき、自分の気に入った顔が描けたときに、遊びに来てくれた人たちが「いい顔ですねぇ」なんて褒めてくれるとその気になっちゃうんですよね。子どものころから誉められるとよくなる。当時バレエをやっていたんですが、同級生に上手だったよねなんて言われるとその気になって踊っちゃうし。いいことはけっこう覚えているんだけど、嫌なことはすぐに忘れるという意味では、けっこうやさしいんだよね、僕って。やさしさですよ、絵は。絵に反映されるんですよ、きっと。
(2005.6.14 ギャラリー本城にて取材)
金子國義 略歴
1936 7月23日、埼玉県蕨市に生まれる。四人兄弟の末っ子(兄二人、姉一人)。
1936
生家は織物業を営む裕福な家庭で、特別に可愛がられて育つ。
1938 クレヨンで夕焼けの景色を巧みに描き、母を驚かせる。
1943 蕨第一国民学校(現・蕨北小学校)入学。特に図画工作、習字に秀でる。
1951 ソニア・アロアのバレエ公演を観て憧れ、ひそかにバレエのレッスンに通う。
1952 ミッションスクールの聖学院中学校から聖学院高等学校ヘ入学。映画狂時代。
1955 日本大学芸術学部デザイン科入学。学業と平行して歌舞伎舞台美術家 長坂元弘氏に師事。
1957 若手舞踏家集団「二十日会」を結成。第一回公演「わがままな巨人」の舞台を担当。
1957
同時に春陽会・舞台美術部門で入選する。草月流生け花を習い始める。
1958 新橋演舞場「東をどり」で「青海波」の舞台美術で、大劇場のプログラムに
1958
はじめて名前が出る。
1959 大学卒業後、グラフィックデザイン会社でコマーシャル、エディトリアルデザイン
1959
などの仕事に従事するが、3ヶ月でクビになる。
1964 独学で油絵を描き始める。
1965 この頃澁澤龍彦氏と知り合う。
1966 唐十郎を知り、その誘いで新宿のジャズ喫茶ピットイン公演の状況劇場「ジョン・シル
1966
バー」の舞台美術を担当、女形としても出演。
1967 銀座青木画廊にて初個展「花咲く乙女たち」を開催。
1971 ミラノ・ナビリオ画廊にて個展開催。
1974 オリベッティ社より、絵本『不思議の国のアリス』刊行。
1975 生田耕作訳『バタイユ作品集/マダム・エドワルダ』の装幀・挿画を担当。
1978 版画集「アリスの夢」角川書店刊。
1983 バレエ「オルペウス」(西武劇場)の構成・演出・美術を担当。
1994 写真集「Vamp」新潮社刊
1998 東京・神田神保町に「美術倶楽部ひぐらし」を開設。
2002 オリジナルデザイン浴衣「KUNIYOSHI KANEKO」を京呉館より発表。
2003 ギャラリー本城にて個展“小さなのぞき穴 -Le petit judas-”
【インフォメーション】
現在
ギャラリー本城
にて先生の個展が開催されています。お近くにお出かけの際は、ぜひお立ち寄り
下さい!
『愛する権利 Le droit D'aimer』
Lithographie 420×297mm 2005年
展覧会名
金子國義展 ‐部屋 La Chambre‐
会場
ギャラリー本城
東京都中央区銀座7-2-8-401
tel:03-3573-3500
http://www.galleryhonjoh.com/
会期
2005年6月6日(月)〜6月25日(土)日・祝休廊
時間
12:00PM〜7:30PM(最終日は3:00PMまで)