高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
金井訓志・安達博文
クラウディア・デモンテ
森田りえ子VS佐々木豊
川邉耕一
増田常徳VS佐々木豊
内山徹
小林孝亘
束芋VS佐々木豊
吉武研司
北川宏人
伊藤雅史VS佐々木豊
岡村桂三郎×河嶋淳司
原崇浩VS佐々木豊
泉谷淑夫
間島秀徳
町田久美VS佐々木豊
園家誠二
諏訪敦×やなぎみわ
中山忠彦VS佐々木豊
森村泰昌
佐野紀満
絹谷幸二VS佐々木豊
平野薫
長沢明
ミヤケマイ
奥村美佳
入江明日香
松永賢
坂本佳子
西村亨
秋元雄史
久野和洋VS土屋禮一
池田学
三瀬夏之介
佐藤俊介
秋山祐徳太子
林アメリー
マコト・フジムラ
深沢軍治
木津文哉
杉浦康益
上條陽子
山口晃vs佐々木豊
山田まほ
中堀慎治

ミヤケマイ氏
'Round About
第52回 ミヤケマイ

2007年梅雨の銀座五丁目、「メゾンエルメス」のポップなウィンドーディスプレーが話題になった。制作担当はミヤケマイ。2001年に本格的な作家活動を開始し、次々にマルチな才能を発揮している、今最もヴィヴィッドな作家と言っても過言ではない。ミヤケマイの日本的な感性を滲ませつつ、洒脱、エスプリ、シニカル、ファンキーな作品に様々なフィールドから注目が集まっている。
2008年6月、ミヤケマイの大々的な個展がスタートを切る。

※画像はクリックすると拡大画像をひらきます。 
 
   
●今回の展示ですが、ある種の物語性の印象を強く感じたのですが、そういうお話はどういう形で自分の中に取り込んでいるのですか。
ミヤケ今回も日本ホームズという場所が決まってましたし、その中の炉のきってある和室を割り振られたということが始まりです、季節が5月だったという、物理的な条件でお話を組み立てていきました。わりと私はいつも場所ありきで、武将じゃないですけど、地の利を最大限に生かしたいほうで、その土地に、無理矢理自分の作品で侵略するっていうより、その場所が持ってる何かを利用して、そこにシーンを作りたいなって思うほうなのです。竹とか雀が5月の季語で、いいと思ったのと、お家ってどんなものかなって連想した時に、下界の嫌なものや恐ろしいもの近づいてほしくないものから、自分や家族を守る。それでいながら、怯えた人間が住む事によって、一種の檻のようにも捉えられてくる。自分の恐怖とかに捉えられてる鳥籠の様なものなんじゃないか、その両面性を作品にしてみたくて、寓話の『すずめのおやど』をモチーフに今回使わせてもらいました。

●例えば『すずめのおやど』がミヤケさんの人生のいずれかの段階で触れて残っているということですか?
ミヤケそうですね、小さい頃に聞かされてます。一度仕事で金沢のお茶屋さんに、連れて行って頂いたことがあったのですが、竹と雀という、非常に洒落たお座敷小唄があったんです。凄く気に入って、いつか作品に使いたいなと思ってたんですが、今回ぴったりと思って使ってみました。こういった自分の引き出しにしまったものは、その場に立った時にパッこれだと思う事があります。
 
 
 
●この前の画集を拝見して、ミヤケさんの世界だなっていうのはどの作品見ても一目で分かると思ったのですが、現在と3年前とで変化はありますか?
ミヤケ自分が一人で描いてる延長線にあると思うんですが、人に見せる感覚が3年前は稀薄でした。もっと大きな空間でさせていただくようになって、空間に負けない、コントロールする意識が芽生えてきたような気がします。それまで小さな画廊のスペースで、住宅とそう変わらないスペースだったので、あまり何も考えなかったのですが、美術館でやる事によって、天井高が3m、4mあって、いつも慣れてる空間とは違う所でやるということで、空間を意識し、空気の密度とかにどうやって対抗していくかとか考えさせられました。私は生活と美術が一つというのを根本に置いているので、生活感がまったくない美術館の空間の中で、どうやって自分の生活と作品を、見にこられた方々の生活とリンクさせるかというのが課題になってきた時期です。その後もエルメスのウィンドウをやらせて頂いたりとか、今までやった事のない不規則な空間をやらせて頂いて、新しい挑戦でした。インスタレーション形式の作品を発表したり、自分は作品を通して人とコミュニケーションとりたいのだという事が分かって凄くやりごたえがありました。
 エルメスの話を頂いた時に、銀座の目抜き通りで、すごく忙しいペースでどんどん過ぎていく人達をどうやって掴まえて、見てもらえるのかというのは美術館以上に難しい制約とプレッシャーがありました。平面の作家なんで、空間をやる作家さんと生い立ちが違いますので、お受けできるのかどうか凄く心配でした。私の作品はどちらかというと、おとなしく内証的な、じっと見て徐々に気が付いてくるような、つまり、時限爆弾的な作品で、ぱっと素通りの人もインパクトでがっと掴む様な作品を作っていないので、凄く不安だったんです。結果は、多くの方々に自分の世界観のディテールをじっと見てもらう事ができたっていうのが新しい発見であり、日頃美術館や画廊に足を運ばないような色々な方から沢山の反応を頂き考えさせられました。
 
●立ち位置や、フィールドが変化する事によって、対応してきたっていう変化はあるけれども、一方で変わらないものといいますか…。
ミヤケ気持ち的に表現したい事は変わってないですね。テレビとかラジオとか向こうから一方的にくる情報、自分のペースじゃなく、向こうのペースでどんどんやってくのが、ある意味楽だと思うのですが、自分は何も返さなくても勝手に情報が入って来たり、面白かったりしますので。そうしたメディアに比べて絵画とか美術は、自分から近づく自発的な行為が多少要求される気がします。逆に言うと自分の時間とペースで見る事が出来る利点もあり。そこらへんが気に入ってます。私が個人的にマイペースだからかもしれないですが、向こうからどんどん、欲しいか欲しくないか分からない情報を与えられていくよりは、自分で見たいものを見たい距離や、見たい時間で見るっていう、わがままな事ができるのがいいなと思ってます。時間はかかるかもしれないけれど、デリケートなディーテールとか、何か言語化できないものを汲み取っていく事が好きなのかもしれません。絵は記号でしかなく、見た人の中に物語がそこから派生して、絵と本人との中間くらいに育っていくもの、それを私は記憶って呼んでるんですが。私は人間は記憶だけで成り立ってるような気がするんです。誰にも奪われない記憶、記憶だけが、極端にいえば私には重要なんです。平面を描いたり2.5次元のものを作っていても、常に表現するものは何かの記憶だと思います。
●ミヤケさんの作品は、かろやかで好かれやすさがあると思うし、誤解はあると思いますが、ポップで可愛い印象がある。ミヤケさんを好きな人はそういう感覚を共有してると思いますが。
ミヤケ私自身は自分の作品が可愛いと思った事はなくて、実際私の作品好きな人は可愛いというよりは言語化できない腑に落ちない部分とか、ありそうでなさそうで、しんとしてるのに動き出しそうなところとか、そういう相反するけどそこにある世界観が気になるようです。私としてはポップで可愛くて、見て単純に難しく考えないで好きとか、スレートな感覚は重要なファクターだとは思っています。ただそれだけじゃなくて、時間
はかかるやり方ですが、だんだん分かってきた時に、ああそういう風になってるんだとか、その人の中にも私の植えた種で花が育つ事で、何か私のものでない別のものがが展開していくというのに興味があります。
●ミヤケ作品を語る言葉の中に、「現代的な和のスタイル」とか、「日本文化の継承」という表現が散見されます。これはどう思われますか?
ミヤケそれが論点に上がる事自体が凄く不思議に思っていて。親も日本人で、ほぼ日本で育っていて、和的なのは当たり前で、和じゃないものをどうやって構築するんだろうって。例えばマックドナルドだって、日本人が「いらっしゃいませ」って言ってる和風なマックにしか行けないわけで、ここに在る限りつまり、それは和のように思えます。プラス現代性っていうのも、今の生活を普通にしてたら現代的なのは普通ですよね。今ここに住んでいる日本人としての、自分の等身大のものしか描けないので、逆に違うもの、和じゃないものを探すより、自分の等身大の中で一番、リアルに表現できるものを考えると、日本的なもの現代的なものは意識しなくても入ってくると思います、それが何故特異な事、論点として上がるのかが逆に私には解せない点ではあります。今自分がいる定点。その定点が何によって作られているか、ずらっと後ろに繋がってるし、もちろん未来にも。淘汰される流れの、今ここにいるっていうのが面白い。ここに行きたいって思わなくても、ここにいれば、後ろは全部くっついてきて、未来はこのまま生きていれば前にいやがおうでも繋がっていく、だから特に逃げる必要がないという寂寥とした安心感が個人的には好きなのかもしれません。
●現代に足をつけて制作してるだけで、過去、未来、現在の作品はおのずと意識しなくてもなり得る?
ミヤケ2010年を作品にしてくれって言われても今と切り離してそれは出来ないと思うし、200年前の作品にしてくれって言われても、それ風でしかなくて、リアルなのか?というのに疑問は感じます。私にはなんとなく不自然に感じます。

●和的って、次の画集の中にもあったと思うんですが、そう捉えられていること、ミヤケさんはどう思ってるのかクエスチョンでもあったんですけど。
ミヤケ和的な事はまったく意識してないです。コンビニのこのパッケージ気になるなっていうのと同じで、このお茶道具面白いなって、自分の生活の中琴線に引っかかってきたものを拾い上げているだけで、日本に住んでいるのでどうしても和的なものに接触する事が多くなります。自分が日本人なので、自分が一番理解できてることしか表現できないという大前提があるからでそいう画題の選択になっているのかもしれませんけど。

●海外で何年か住まわれた経験が、日本を外から見る事によって…
ミヤケまったくないです。もし何か影響があるとしたら、西洋文化に対して、見上げるとか憧れるって感覚が他の日本人に比べて希薄という事だけです。