高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
金井訓志・安達博文
クラウディア・デモンテ
森田りえ子VS佐々木豊
川邉耕一
増田常徳VS佐々木豊
内山徹
小林孝亘
束芋VS佐々木豊
吉武研司
北川宏人
伊藤雅史VS佐々木豊
岡村桂三郎×河嶋淳司
原崇浩VS佐々木豊
泉谷淑夫
間島秀徳
町田久美VS佐々木豊
園家誠二
諏訪敦×やなぎみわ
中山忠彦VS佐々木豊
森村泰昌
佐野紀満
絹谷幸二VS佐々木豊
平野薫
長沢明
ミヤケマイ
奥村美佳
入江明日香
松永賢
坂本佳子
西村亨
秋元雄史
久野和洋VS土屋禮一
池田学
三瀬夏之介
佐藤俊介
秋山祐徳太子
林アメリー
マコト・フジムラ
深沢軍治
木津文哉
杉浦康益
上條陽子
山口晃vs佐々木豊
山田まほ
中堀慎治

久野和洋 VS 土屋禮一
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土屋:僕は久野さんとは親しいと言いながら、今日はあらためて内なる久野さんの画歴を引き出せるのを楽しみにしています。
久野:こちらも、古い友人の土屋さんにギャラリートークのお相手をしていただくのを楽しみにしています。
土屋:学生時代、久野さんの存在というのは、日本画の教室まで伝わってくる、伝説的なところがありました。久野さんは家を勘当のような感じで飛びだしてきたと聞いていますけど、自分で働いて授業料を捻出する苦学生で、曲がったことを許さない、正義漢の塊といったようなところがあった。黒澤明の『七人の侍』に久蔵という宮口精二がやる剣客がでてきますけど、変なことを言うと「寄らば切るぞ」といった近寄りがたいオーラがある人でした。それが個展会場で会ってみますと、夢と絵を信じて生きている代表選手みたいなところがありまして、僕自身も絵に関しては学生なりに一生懸命がんばっているという思いがあったんですが、久野さんに会って、かなわない人が世の中に居るんだなあと感じました。それからしょっちゅう絵の話をするようになって、気が付いたら40年経ちました。一番よかったと思うのは、久野さんとデッサン会を毎週金曜日、10年、20年、続けたことです。久野さんは“形”というものに、執拗なくらいにこだわりがあって、今日も作品を見せてもらいながら、デッサンが凄いなあと思いました。カタチが厳しければ厳しいほど絵が魅力的になるんだ、と、その当時久野さんが言っていたことを思い出します。
 
   
 
信義を貫く絵画の道
土屋:久野さんが絵を描くそもそものきっかけはなんだったんですか
久野:子どもの頃から絵が好きだったということはもちろんありますが、それに加えて、いろいろな意味で家庭的に恵まれなかった。絵を描くことが自分にとって唯一の救いでした。絵を描くことで全てが報われるというか、絵があることで、心のバランスがとれている、そんな少年時代でした。
 
  土屋:何か体の中にいつも隙間があるんだね。
久野:そうそう、埋めようのない何か。土屋さんと似ていると思う。
土屋:自分の半身を、魂の分身を、探しているということがありますよね。
久野:そんな感じです。20才で画家を志して上京する際、実家は経済的に余裕のない情けない状態でした。当然の如く無援。何も助けてくれないので、すべて自分の小さな能力の中で生きていかなければいけなかった。けれど、結果的にそうした境遇がいろいろな困難を克服させた、ものすごく大きな原動力になったんじゃないかと思っています。ハッピーなこともいいけれども、そうでないことが、将来大きな意味を持ってくる。苦労しろ、というものではなくて、与えられた運命的なものを、ひとつひとつ乗り越えていけば、世間一般の人とちゃんと渡り合えていける。ひたすら絵を描いてきたことが、自分を救ってきたと言えますよね。
土屋:久野さんが家を飛びだす時に、いろいろあったらしいよね?
久野:僕が「絵の勉強のため東京へ行く」と言ったら家族会議になっていて、「何を寝言いっとるんだ」、時代劇の言葉で言うと“世迷い言”というのかな、ぜんぜん問題にされない。画家になるなんて、一般人の感覚として「とんでもない」と言うわけです。僕が「今、東京へ行かないと」、いくらがんばってもだめなんです。結局「俺の人生だから、俺が決める」そんな感じで、飛びだすような格好になったんです。でも、親を恨んではいません。僕の場合は、絵描きになることが特殊な世界なんだということを充分認識していました。当時、東京国立博物館で開かれていた「ゴッホ」展を見た感動が上京する直接のきっかけでした。東京に出てくるその時、自分に言い聞かせたんです。「お前は本当に一生を絵を描き続けていけるのか」。「願いを諦めることはないだろうな」とね。「大口を叩いて出ていった以上、やることやるんだろうなあ」と。僕は“信義”、約束を守るという言葉が好きなんですが、自分の信義に悖るというか、自分の決心に背いてはいけないという気持ちが、強くあったと思います。そういう一般の人には理解されがたいような美術の世界に足をつっこんだというのは、運命的に自分を生かす道がそれしかないんじゃないかと信じてました。人間というのはどこかひとつ取り柄があるもので、それを何とか大事に守っていければ、生き抜いていけるんじゃないか、という感じでしたね。
 
   
   
 
芸術の上では進歩はない
土屋:久野さんにとってはヨーロッパへの留学は決定的だった?
久野:決定的でしたね。武蔵美にも遅くに入ったし、留学できたのも学校を出てから8年目でしたから、すべてが奥手でしたね。一歩遅れていくという、そういう巡り合わせになっていて、ヨーロッパに行ったのも三十半ばです。歳取り過ぎての留学はあまり 意味がないと思ったし、若すぎても消化吸収できない。その頃、武蔵美に在外研究制度が出来て、僕の派遣が認められました。パリの美術学校へ招待研究生の身分でした。はじめは1年間の予定だったんですが、ルーブルでジォットの作品を模写していて、完成まで時間の不足となり、「滞在延長したいんですけど、いかがでしょうか」と大学へ手紙を出したんです。「勉強をしていただくのは結構ですけれど、大学の籍がなくなります」と大学から通知がきました。それで「ああそうですか、ではやめさせてもらいます」と辞表を出す事となった。絵描きになるか、大学の先生になるか、と言われたら僕は絵描きになりたかったわけです。困ったなと思いながらも、僕の選択は正解だった。帰国して、銀座の画廊で滞欧作品による個展を開いたわけです。で、麻生三郎先生、森芳雄先生、ムサ美の教授が来て、「久野君、せっかくヨーロッパへ勉強に行ったのに、学校やめたんだよね」「もう一回大学へ戻ったらどうか」となって、後日理事長から非常勤講師として復職の話があった。留学は、当初1年半の予定が3年近くなりましたが、模写も完成しましたし、勉強したいことを一生懸命して、デッサンもたくさんしました。留学中、好きなイタリアはじめ、各国の美術館、教会を丹念に巡り歩きました。ヨーロッパでの3年近くの期間は、僕にとって10年分くらいの価値があったと思う。現在、画家として今日あるのも、この時代の体験があっての事だと思っています。1975年の「自画像」が当時の私を象徴しています。
 
   
   
 
土屋:僕も久野さんの手紙でしょっちゅう励まされていたし、退任展覧会で美術館を歩いた順番と回数を記録したもので、ミシュランみたいな久野式美術館格付けのような一覧表があって、あれは感動したね。ルーブルは当たり前だけど、ひとつの美術館に5回10回と行っているんだね。久野さんらしいと同時に、「やっていたんだなあ」と思ったね。