高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
諏訪敦×やなぎみわ
中山忠彦VS佐々木豊
森村泰昌
佐野紀満
絹谷幸二VS佐々木豊
平野薫
長沢明
ミヤケマイ
奥村美佳
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久野和洋VS土屋禮一
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深沢軍治
木津文哉
杉浦康益
上條陽子
山口晃vs佐々木豊
山田まほ
中堀慎治

中山忠彦
'Round About

第46回 中山忠彦 VS 佐々木豊

日本最大の美術団体・日展の事務局長として奔走し、また、人気作家を次々生み続ける白日会の会長中山忠彦氏の登場。「21世紀の画家がなぜ19世紀の衣裳を描くの?」「ヌードを描かないのは師への気遣い?」「写実画家は3人展でも個展に見える」などなど、佐々木豊の変化球は、はたして大御所の反撃を封じるやいなや。 

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着る人が鍛えられる
佐々木:良江夫人をモデルにずっとやってきたわけだけど、「一人のモデルを長期にわたって描けば、当然加齢の問題に直面し、それに対処する表現が問われる」(『美術の窓』「絵の中の女性たち」最終回)という中山さんの文章を読んだ。
中 山:初めは若さやあどけなさを主眼にしても絵が描ける。
佐々木:成人の女性になってくるとそうはいかなくなる。
中 山:ぼくがアンティークの衣装を仕事に使うようになったのは、19世紀が女性が最も美しく装われた時代だからです。夫婦の日常を非日常の世界に持って行くための手段として衣装が大きな役割を果たしました。
佐々木:衣装が?
中 山:衣装が着用する人を選ぶというか、着る人間が鍛えられるというか。若い女性が着ると衣装に負ける場合があるんですよ。オートクチュールは立体裁断で、その人だけのためにつくるのであって、ふつう他人は着用しない。寸法も違うし個性も違う。それを逆に利用する。着こなすためには、深い精神性や女性としての豊かさが求められます。
佐々木:のっけからいじわるな質問だけれど、ここは現代のアトリエというよりも、前世紀の館に迷い込んだ感じ。21世紀に生きる絵描きとして、19世紀の衣装が一生のテーマになっていることを、どう考えているんだろうか? 
 
中 山:その時代だけにしか通用しないものは、ぼくはあまり信じていないんです。たとえば、なぜモーツァルトやバッハやシュルツを聴いて今なお新しいと感じ感動するのか。そいうことは絵にもある。フィレンツェで、修復が終わって展示されていたボッティチェリの「プリマヴェーラ」を見たときの新鮮な驚きは、色の輝きだけでなく、テーマやモチーフの女性たちからも受けて、まったく古いとは思わなかった。
佐々木:古典主義の作家の潔さですね。
中 山:古さこそが本当は新しいということを見つけるまでずいぶん迷いがありましたが。
 
 
ヌードを止めた理由
佐々木:ついでにもう一つ意地悪な質問。ある画商さんから「中山先生がヌードを描かないのは、あれは伊藤(清永)先生に気を遣っているからだよ」って聞いたことがある。
中 山:それは半分当たっている。
佐々木:やっぱり。
中 山:伊藤先生が「おれは中山がちゃんと育つまで、コスチュームを描かない」って言ったことにも通じる。
佐々木:へえ(笑)。でも、伊藤清永画集にはちゃんと着衣もある。
中 山:だけど「裸婦の伊藤」と呼ばれてそれを誇りにしていました。
 
佐々木:20代のはじめ、伊藤先生の肝いりで一緒にグループ展をやった。あの頃は裸婦を描いてましたよね。
中 山:いずれ着衣を描くには、着衣の下にあるギリシャ的な造形法をまずしっかりと体得していこうと考えたわけです。それで結婚をして家内というモデルを得たからコスチュームになったのは自然の流れと言える。
佐々木:奥様に「なぜ裸を描かないの」と言われたことは?
中 山:一昨年43年ぶりに日展に裸婦を発表したきっかけは「またモデルを使って裸を描いたら」と彼女に言われたから。
 
写真起こしは絵を見ればわかる
佐々木:中山さんは、記録用とかで写真を撮ったりするんでしょ?
中 山:亡くなった人の肖像を描く場合に、やむを得ず写真を使ったことはあるけど、原則としてはモデルに可能な限りここに通っていただいてます。
佐々木:写真を使う人はたいていアトリエを隠したがる。写真を使う後ろめたさは、どこから来るんだろう。
中 山:ぼくは写真の利用が全て悪いとは決して思わない。利用の仕方ですね。細密の作家たちは、瞬間を止めて見たいから写真の転写に走っている人が多い。だけど、例えば写真をたくさん利用したドガの場合、バスタブに入ろうとしている女性やバレリーナなどの実に見事な写真があって、そこから彼は何十枚もデッサンを描き起こしている。たぶん完全に自分の絵として消化した時点でタブローに描いたんでしょう。
 
  佐々木:写真と絵画とはどう違うと?
中 山:我々は複眼で継続性をもっているけれど、写真は単眼で瞬間の定着でしょ。写真ではそのメカニズムで前景が大きく写るとか、遠近の極端な差がでます。
佐々木:だから写真起こしかそうでないかは絵を見ればわかる。
中 山:ぼくが若い人たちによく言うのは、「写真を利用するにしても、手前から写真を撮ってただそれを利用しちゃいけない。横からも、後ろからも写真を撮って、人の存在している空間を歩いて確かめなさい」と。結局、絵は空間を描くことの意味が非常に大きい。古典的であろうと前衛的であろうとそれは変わりません。
佐々木:三次元の物体を二次元に抽象化するという点で。
 
 
  中 山:だから、どんなに具象をやろうとしても、やっぱり抽象の範囲にまで及びます。
佐々木:ぼくはどんな小さい絵もいつも立って描いている。描いたと同時にパッと離れて今描いた部分を全体との関連で検証するクセがついちゃている。
中 山:同感。だからこの椅子のキャスターを活用する。
佐々木:距離によって見え方が違う。
中 山:ベラスケスは二メートルくらいの筆で描いたんじゃないかという気がすることがある。