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新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ 文・坂崎重盛



 Nさんへ。
 いやあ、見ました見ました。Nさんのお顔を初めてテレビで拝見しました。出張先のホテルで何気なくテレビのスイッチを入れたら、ちょうど何とかいう評判の美術番組でNさんの特集をやっているじゃあないですか。こうして、一方的に片思いのお手紙を差し上げていながら、私はまだNさんとは一度もお会いしたことがないのですから、今回テレビで拝見したのが思いがけぬ「初対面」だったというわけです。
 番組のタイトルが「巨大天井画に挑む──日本画家Nの帰郷」というのにも惹かれました。以前新聞の片すみで、Nさんが出生地である青森県五所川原の古刹で天井画を描いているという記事は読んでいたのですが、それがあれほどの大作であったとは知りませんでした。絵が描かれる天井の総面積が約八十平方メートル、テレビでは構想十年、制作には三年余が費やされると報じられていましたが、現在ようやく全体の三分の一が出来上がったところだそうで、一年のうち半分近くはそのお寺に泊りこんで絵筆をふるっておられるとか、いやはや、いつもながらNさんの制作に対するあふれるようなエネルギーには感服するばかりです。何段にも組まれた足場のてっぺんにのぼって、仰向けになって天井画に色や線を入れられている姿には、まさしく一匹の画鬼がのりうつったような迫力がありました。
 ところで、今回の番組のなかで私が「天井画」以上に心を動かされたのは、Nさんにとってそのお寺が先年亡くなったお父上の眠っている菩提寺であるということでした。Nさんのファンのあいだではもうとうに知られていることなのかもしれませんが、恥ずかしながら私は、Nさんの父上が地元青森ではかなり有名な宮大工さんであったことを今まで知りませんでした。しかもテレビの情報によると、今回お寺の「天井画」をひきうけられたのは、かつてそのお寺の本堂の建築を父上が手がけられていたという縁からであり、つまりは今回の「天井画」は父子二代にわたってのお寺への奉納であるというではありませんか。
 私はあらためて、Nさんの芸術が郷里青森の風土と切っても切れない関係にあることを再認識しました。あのどこか冥界のかなたをただようような、ふしぎな孤独感をたたえた画面の底には、Nさんが幼い頃からみつめていた故郷の山河があるのだなということに気付かされたのです。
 とりわけ私は、Nさんの父上が宮大工さんであったことに何ともいえない感動を覚えました。今回の天井画がその亡き父上が眠る菩提寺の天井を飾るものであったことにも心打たれました。というより、そんなNさんが羨ましくて羨ましくてなりませんでした。
 Nさんもたぶんご存知のことと思いますが、私は戦争中二歳のときに実父母と生き別れて、戦後三十数年経って巡り会ったという体験をもつ男です。しかも、おどろいたことにその巡り会った父親が有名作家の水上勉氏であったというじじつに、当時はマスコミが「奇跡の再会」だとか「昭和のシンデレラボーイ」だとかいって大騒ぎしたものでした。当時私は三十四歳、それまでウダツのあがらない小さな画廊の経営者だった男に、一夜にして「有名直木賞作家の子」という称号があたえられたわけですから、私の半生においてそれが忘れられない事件となったことはたしかでしょう。
 しかし、それとひきかえに私が喪ったものも大きかったといわねばなりません。
 私が実父と(のちに実母とも)再会を果たしたのは、私が中学時代から自分の出自に疑問をおぼえ、西に東に親さがしの旅を重ねたすえに実現したことでした。幼い頃から自分の本当の親、本当の故郷を知らないで育った私は、そんな宙ぶらりんの境遇から一日も早く脱出したいという一心から、二十年もの歳月をかけて親をさがしあるき、ついに自分の父が水上勉氏であることをつきとめたのです。
 でも、あれほど恋焦がれていた実父母と巡り会った結果、自らのアイデンティティが回復されたかといえば、それはまったく逆でした。逆というよりも、私は自分の真実の出自を知ったことによって、以前にもまして真っ暗ヤミな「浮遊状態」のなかに放り出されたのです。
 考えてみれば当然でしょう。
 ふつうの人間であれば、生まれたときにすでに両親がだれであり、出生地がどこであるかは決定されていることであり、だれもがそこから自らの人生を切り拓き、耕し、生きてゆくものなのだと思います。ある者は自らの家族と訣別して自立し、ある者は自らの出自を容認したうえで新しい自分自身の生をもとめてあるきはじめるのです。私の場合は、その「出発点」に三十四歳になってはじめて立つことができた、といっていいのです。三十四歳にして、私はようやく零歳の幼児となってこの世に誕生した、とでもいっていいでしょうが。
窪島誠一郎
略歴
1941年東京生まれ。印刷工、酒場経営などを経て1964年東京世田谷に小劇場の草分け「キッド・アイラック・ホール」を設立。1979年長野県上田市に夭折画家の素描を展示する「信濃デッサン館」を創設、1997年隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開設。
著書に生父水上勉との再会を綴った「父への手紙」(筑摩書房)、「信濃デッサン館」|〜|V(平凡社)、「漂泊・日系画家野田英夫の生涯」(新潮社)、「無言館ものがたり」(第46回産経児童出版文化賞受賞・講談社)、「鼎と槐多」(第14回地方出版文化功労賞受賞・信濃毎日新聞社)、「無言館ノオト」「石榴と銃」(集英社)、「無言館への旅」「高間筆子幻景」(白水社)など多数。「無言館」の活動により第53回菊池寛賞を受賞。

信濃デッサン館
〒386-1436 長野県上田市東前山300
TEL:0268-38-6599 FAX:0268-38-8263
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:12月〜6月毎週火曜日休館(祝日の場合は翌日休館)
入館料:一般 1000円(900円)小・中学生 500円(450円)※( )内は団体20名以上

昭和54年6月、東京在住の著述家・窪島誠一郎が20数年にわたる素描コレクションの一部をもとに、私財を投じてつくりあげた小美術館。収蔵される村山槐多、関根正二、戸張孤雁、靉光、松本竣介、吉岡憲、広幡憲、古茂田守介、野田英夫らはいづれも「夭折の画家」とよばれる孤高の道を歩んだ薄命の画家たちで、 現存する遺作品は極めて少なく、とくに槐多、正二のデッサンの集積は貴重。 槐多は17歳ごろ、正二は16歳の春に、それぞれこの信濃路、長野近郊あたりを流連彷徨している。

無言館
〒386-1213 上田市大字古安曽字山王山3462
TEL:0268-37-1650 FAX:0268-37-1651
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:12月〜6月毎週火曜日休館(祝日の場合は翌日休館)
鑑賞料:お一人 1000円
入館について:団体(20名様以上)での入館をご希望の方は必ず事前予約を。

「無言館」は太平洋戦争で志半ばで戦死した画学生の遺作を展示する美術館。

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