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窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
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外山滋比古 人間距離の美学
坂崎重盛 粋人粋筆探訪
もぐら庵の一期一印
新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ 文・坂崎重盛



 Nさんへ。
 まことにこの世は無常迅速。前回お便りを差し上げてからあっというまに一ヶ月ほどがすぎ、気がついてみると暦はもう三月、私の住む東信濃のけしきもすっかり春めいてきたようです。ついこのあいだまではるか遠くにそびえる浅間山や、上田のシンボル太郎山の山頂が白い沫雪にそまっていましたのに、ここ何日か美術館の窓からみえる塩田平(上田市の西にひろがる盆地)の風景には、どことなく仄あたたかい春の陽射しがあふれています。前回ちょっぴりマト外れな私的感想をのべさせてもらったNさんの作品「早春」が、まだ完全に頭からはなれていないせいでしょうか、ことのほか今年の東信州の春の光は私の眼にまぶしいのです。
 ただ、このまぶしさにはもう一つ、私が心から今年の春の訪れを祝う気持ちになれないでいる、せつない思いがあることも告白しておかなければなりません。
 じつは昨年の今頃、私は二十数年間片腕として働いてくれていたMさんという女性を喪いました。まだ五十一歳の若さでした。最初は主に東京の仕事場(私は出生地の東京世田谷で小さなギャラリーとホールも経営していますが)を仕切っていてくれた人でしたが、ここ十何年かは経理から人事、果ては私の講演依頼の窓口から原稿の整理まで、何から何までこなしてもらう、文字通り私にとっては余人にかえがたい「大黒柱」ともいえる存在の秘書でした。その彼女の身体に悪性リンパ腫という病が執り憑いたのは十年ほど前のこと、そのときは東京医大の名医の執刀によって何とか死地をくぐりぬけたのですが、一昨年の暮れにその腫瘍がお腹の隅々にまで転移していることがわかり、ついに帰らぬ人となったのです。
 これも私自身が年をとったという証なのでしょう、ふりかえれば昨年から一昨年にかけて、私はMさんだけでなく多くの友人知己を見送りました。Nさんもご存知の方と思いますが、私の美術館の設立時からの応援者の一人で、すぐ隣町の松本市美術館長をつとめられていたY氏。Y氏とは、まだY氏が大手新聞社の学芸部記者だった頃からの付き合いで、氏が新聞社を退社後私の美術館にほど近い松本の美術館に奉職してからは、時々誘いあっては県内のあちこちで盃をかわしたものでした。その氏も二年前食道ガンにたおれ、約一年の闘病生活をおくったあと七十歳で他界したのです。
 また、群馬県の桐生市で私と同じ大正昭和期の異端画家の作品を収集しているO美術館の館長で、何くれとなく私を指導してくださったOさん(きっとこの方の名もNさんはご存知でしょう)がやはりガンで逝ったのも同じ時期でした。Oさんはもともと実業界に身を置く人でしたが、一説によると私の美術館「信濃デッサン館」に刺激をうけて故郷の桐生にO美術館を建設することを決意したとか。たしかに美術館の経営においては、私の館のほうが十年ほど先輩でしたが、その絵画コレクションにかける情熱、モノの真贋を見極める眼力においては、私のはるか前方をあるく大先達のお一人でした。そのOさんも一昨年の暮れに八十五歳で没して、この数年私の周辺は愈々さみしくなったというしかないのです。
 しかし、私にとって秘書のMさんの死は、そうした人々の死とはまったくちがう意味をもった死といえるのでした。
 それは何も、彼女が私の仕事上の優秀なパートナーであり、彼女なしでは私の仕事は成り立たなかったという意味だけでいっているのではありません。たしかに彼女の死後、私の仕事はあらゆる面で遅滞を余儀なくされ、いかにその手助けが大きかったかを思い知らされている毎日なのですが、そのことだけでMさんの存在の大きさを語ろうとは思っていないのです。
 私にとって、なぜMさんの死がこれほどまで深い喪失感をもたらすものだったのか、それはMさんの死後、あらためてMさんがいかに私を信頼し、期待し、私の仕事の将来を嘱望してくれていたかということに気付かされたからです。私への信頼というより、私の仕事に対してどれだけ大きな夢を抱いてくれていたかがわかったからです。そこには一事業主と雇用人という関係をこえた、もはや同志とでもいっていいほどの強靭な、彼女が私という人間に寄せていた大いなる「希望」というものがあったことに、私は今初めて気付かされて粛然としているのです。
 それは十年前、Mさんが最初に病にたおれて病院にかつぎこまれ、すぐにも手術台に乗らなければならなくなったとき、担当医にむかって「私はあと十年生きられるでしょうか」と問うたという話をきいて知ったことでした。ご主人が耳元で「なぜ十年なの?」ときくと、Mさんは「あと十年あればクボシマの仕事の完成を見届けられるから」とこたえたというのです。
窪島誠一郎
略歴
1941年東京生まれ。印刷工、酒場経営などを経て1964年東京世田谷に小劇場の草分け「キッド・アイラック・ホール」を設立。1979年長野県上田市に夭折画家の素描を展示する「信濃デッサン館」を創設、1997年隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開設。
著書に生父水上勉との再会を綴った「父への手紙」(筑摩書房)、「信濃デッサン館」|〜|V(平凡社)、「漂泊・日系画家野田英夫の生涯」(新潮社)、「無言館ものがたり」(第46回産経児童出版文化賞受賞・講談社)、「鼎と槐多」(第14回地方出版文化功労賞受賞・信濃毎日新聞社)、「無言館ノオト」「石榴と銃」(集英社)、「無言館への旅」「高間筆子幻景」(白水社)など多数。「無言館」の活動により第53回菊池寛賞を受賞。

信濃デッサン館
〒386-1436 長野県上田市東前山300
TEL:0268-38-6599 FAX:0268-38-8263
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:12月〜6月毎週火曜日休館(祝日の場合は翌日休館)
入館料:一般 1000円(900円)小・中学生 500円(450円)※( )内は団体20名以上

昭和54年6月、東京在住の著述家・窪島誠一郎が20数年にわたる素描コレクションの一部をもとに、私財を投じてつくりあげた小美術館。収蔵される村山槐多、関根正二、戸張孤雁、靉光、松本竣介、吉岡憲、広幡憲、古茂田守介、野田英夫らはいづれも「夭折の画家」とよばれる孤高の道を歩んだ薄命の画家たちで、 現存する遺作品は極めて少なく、とくに槐多、正二のデッサンの集積は貴重。 槐多は17歳ごろ、正二は16歳の春に、それぞれこの信濃路、長野近郊あたりを流連彷徨している。

無言館
〒386-1213 上田市大字古安曽字山王山3462
TEL:0268-37-1650 FAX:0268-37-1651
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:12月〜6月毎週火曜日休館(祝日の場合は翌日休館)
鑑賞料:お一人 1000円
入館について:団体(20名様以上)での入館をご希望の方は必ず事前予約を。

「無言館」は太平洋戦争で志半ばで戦死した画学生の遺作を展示する美術館。

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