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坂崎重盛 粋人粋筆探訪
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新刊・旧刊「絵のある」岩波文庫を楽しむ 文・坂崎重盛


 
 
 「漫画讀本」のあれこれに後ろ髪を引かれつつも、この雑誌にばかり取りすがってはいられない。愛しの「漫画讀本」からひとまず離れて先に進もう。
 じつは、この一週間ほど、電車の座席や寝床で、あれこれ読んでいる本がある。画家・東郷青児に関わる本。
 すでに、この連載で触れた、雑誌「苦楽」(戦後版)では東郷青児の粋筆が読める。
 戦時中は、東郷青児のあの、生活感をまったく感じさせないメルヘンチックでメランコリーな画風は、時局にそぐわなかった。
 しかも、フランス帰りで数々の女性との恋愛スキャンダルで勇名をとどろかせていた“軟派の帝王”といった生き方そのものが、軍国主義の時代では「要注意」のレッテルを貼られても不思議ではない。
「人間の記録―東郷青児」『他言無用』の口絵・二科会のドンとなったころの東郷青児か。実にダンディな雰囲気。   元読売新聞美術担当記者・田中穣による東郷青児の評伝。カバー絵はもちろん東郷による作品。
 しかし、敗戦後、世の中がガラッと変わり、これまで封印されていた“軟派”大歓迎ということになる。東郷青児の画風も粋筆も復活。「苦楽」誌への登場も、その一端。
 ところで「苦楽」といえば、東郷青児は世に出る前の若き日、後に第1期「苦楽」の発行元となる「クラブ化粧品」の中山太陽堂に(たった二週間ほど)図案家として就職している。
 第1期、第2期を通じての「苦楽」の挿画といえば、岩田専太郎だが、この岩田専太郎の粋筆にふれたとき、その対として思い出されたのは東郷青児である。これがまた“フランス帰りの色事師”の名に恥じない女人粋筆を残している。題して『他言無用』(昭和48年毎日新聞社刊・1999年「人間の記録・東郷青児『他言無用』」として日本図書センター刊)
 その目次を見てみよう。「他言無用」「おんな嫌い」「いろざんげ」「私の履歴書」の4章から成る。
 なに?「いろざんげ」?
 そうです。ちょっとした文壇ゴシップ通だったら先刻ご承知の、宇野千代の作品に『色ざんげ』(昭和8年・中央公論社刊)がある。これがもうズバリ、東郷青児をモデルにした愛欲図絵なのである。しかも作者の宇野千代自身も、この小説の後日談では、極めてショッキングな役まわりで登場する。(ぼくは新潮文庫で読んだが、現在は絶版のようだ。しかし古本で比較的入手可能では)
 『色ざんげ』は、こんな出だしから始まる。
   どこから話したら好いかな、と暫く考へてから彼はゆっくりと語りはじめた。
 主人公、洋行帰りの画家・湯浅譲二の恋愛遍歴の懐古談である。
 話が前後して申し訳ないのですが、宇野千代は作家・尾崎士郎と別居、東郷青児と恋仲となり同棲。そのきっかけとなるのが『色ざんげ』で描かれた物語の後日談というべきもので、そのなりゆきが凄い。凄すぎる!
 宇野千代の東郷青児との関わりを語った『或る男の断面』。(1984年講談社刊・2011年中公文庫収録)
毎日新聞(昭和48年)刊の東郷青児『他言無用』。赤裸々に己を語っている(ように思わせて実は……)。東郷は絵がまったく売れない昭和初期、文筆でしのいでいたという。   毎日新聞社版から26年たってから復刊された『他言無用』。内容は元本とまったく同じ構成だが、口絵写真や挿画が付されている。中年にさしかかったころの東郷か。いい男ですなぁ。
 宇野千代は新聞連載の小説の中で若い男女がガス自殺をする場面を描くことになり、東郷青児に電話をかけることを思いつく。
 このとき、東郷青児は、愛人とメスで頸動脈を切り、ガスを放って情死をはかろうとしたところを発見、救出されたばかりだったのだ。
  「もし、もし、」と私は電話をかけた。
  「私はいま、ガス自殺をする男女の小説を書いているところですが、その細かい様
  子が分からないで、困っているのです。電話でちょっと、そのときの様子を話して
  下さいませんか。」と言うと、東郷の笑い声が電話の向うから聞こえた。「いま、
  この電話でですか。電話でなぞ、ちょっとお話し出来ないではありませんか、」
 ということになり、結局、東郷の部屋で話を聞くことになるのだが……部屋に入ったとたん、
  「じゃあ、寝るかな、」と東郷が言った。
  「でも、こんな蒲団しかないよ。」と言って、東郷が一枚の薄い蒲団を引き摺
  (ず)り出した。ごわごわと音がしたが、二人はその同じ蒲団の中にくるまって
  寝たのである。
 ――って、ちょっと前の心中(東郷はまだ首に白い繃帯を巻いていた)の様子を当の本人に聞き行くのも凄まじいが、着いた東郷の部屋でいきなり同衾してしまうのも過激すぎる。(しかも宇野千代はそのまま、東郷とその部屋で同棲生活を始めてしまう)
 しかも……宇野が東郷とくるまって寝た「ごわごわと音がした」蒲団とは――
  いままで着ていた蒲団を畳もうとすると、その蒲団の一面に、かりかりに乾いて固
  まった夥(おびただ)しい血が、こびりついているのを見た。(中略)それは青児
  と盈子がガス自殺をし、各々頸動脈を切ったとき、どくどくと流れ出したに違いな
  い夥しい血が、蒲団の凹(くぼ)たまりに淀(よど)み、それが滲(し)みついて
  乾いたものだと分ると、気味悪さを感じるどころか、自分もまた、一種言いようの
  ない、冒険の世界を通り抜けたもののような気持ちになったから不思議である。
毎日新聞社版『他言無用』の扉。キュビズムの影響あり?   画室における画家とモデル。カメラマンの注文に応えてのポーズか。口絵写真と同じジャケットでは。
 「不思議である」などと人ごとみたいな宇野千代だが、彼女は『色ざんげ』を「中央公論」に連載中(昭和8年9月から9年2月まで)、この小説の語り部・東郷青児と別れることとなる。それは東郷があの心中相手と再会、よりを戻したためといわれる(この後、正式に結婚)。一方、宇野千代も編集者であり、作家の北原武夫と恋におち結婚。とにかく、目まぐるしい。
「人間の記録」章扉の挿画。デザイン感覚にあふれている。   こちらも同じ本の章扉の挿画。なるほど「クラブ化粧品」の中山太陽堂で仕事をしても不思議ではない。
 東郷青児の『他言無用』の粋筆は、そんな血なまぐさい雰囲気はなく、若き日の渡仏時代の日々(大正10年から昭和3年まで)や、日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」が収録されている。
 ところで、東郷青児といえば、ぼくたちの小中学生のころでも、その名と画風はなじみぶかいものだった。渋谷の洋菓子店フランセや自由が丘のトップスの包装紙は、この東郷青児の絵じゃなかったかしら。(記憶ちがいだったらごめんなさい)
 そして1960年前後は二科会の大ボスとして君臨、また、始めはジャズ歌手として世に出た娘・たまみが洋画家となり二科展に入選、父とともに二科会の顔になるという東郷親娘は、常に洋画壇ばかりではなく、ジャーナリズムに話題を提供してきた。
 この稿に取りかかる2日前、西新宿の「損保ジャパン東郷青児美術館」を訪れた。2年ほど前になるだろうか、岸田劉生展を見に行って以来である。
 今は「日本赤十字社所蔵アート展」が開かれているが、もちろん東郷青児の作品も展示されている。
 ぐるっと一巡りして、ミュージアムショップにより、おや、これが東郷青児?と思うような絵葉書を5枚ほど(「超現実派の散歩」「ビルヌーブ・ルーベ」「巴里の女」「裸婦」など)を買った。
 が、しかし、あの、洋菓子の包装紙になんの違和感もなく使われるパステルカラーのオシャレでセンチメンタルな画風と、東郷青児という画家の激しい人生とのイメージが、どうしても結びつかない。
 読売新聞、美術担当記者の田中穣は、東郷青児の人生と画風の謎を追跡。東郷青児の師は実は、若き日「港屋」で出会った竹久夢二ではないか、と東郷当人に質している。(『心淋しき巨人 東郷青児』(昭和58年・新潮社刊))
 東郷青児――謎の画風、謎の人だ。今回関連の本を読み比べたが、ますます謎は深まるばかり。
 誰かと、東郷青児の話をしたい。意見を聞かせてもらいたい。
 それにしても、大正末から昭和初期に青春を送った、モガ・モボのハチャメチャぶりは呆然とするばかり。もう完全にPUNKじゃないですか。
(次回の更新は3月1日の予定です。)
坂崎重盛(さかざき・しげもり)
■略歴
東京生まれ。千葉大学造園学科で造園学と風景計画を専攻。卒業後、横浜市計画局に勤務。退職後、編集者、随文家に。著書に、『超隠居術』、『蒐集する猿』、『東京本遊覧記』『東京読書』、『「秘めごと」礼賛』、『一葉からはじめる東京町歩き』、『TOKYO老舗・古町・お忍び散歩』、『東京下町おもかげ散歩』、『東京煮込み横丁評判記』、『神保町「二階世界」巡リ及ビ其ノ他』および弊社より刊行の『「絵のある」岩波文庫への招待』などがあるが、これらすべて、町歩きと本(もちろん古本も)集めの日々の結実である。

全368ページ、挿画満載の『「絵のある」岩波文庫への招待』(2011年2月刊)は現在四刷となりました。ご愛読ありがとうございます。
ステッキ毎日
●ステッキのヘッドが兎の顔だっていいじゃないか●
 もう20年ほど前になるかしら、作家の嵐山光三郎さんや「世界の車窓から」の名プロデューサーのテレコムーノ・オカベッチ、そして盟友にしてゴルフ狂の木谷創造氏らとニューオリンズへ行ったとき見つけたもののうち一本。
兎の顔の部分は透明なアクリル?   兎の眼はちゃんと赤くなっている。
 これは兎の顔だが、柄が真白い足の裏というのがあった。これを持って電車に乗るとチラチラと人に見られた(私は足フェチではない)
 ところで、この兎じつはニューオリンズのものではなく飯田橋のブティック(今はない)で買ったもの。というのは「足フェチステッキ」も「ラビットステッキ」も紛失してしまったのだ。で、後日、飯田橋で見つけたとき補充したもの。



かなり前、これと同じステッキを   
作家の島田雅彦氏が手にして写真にうつっていました。

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