信じる見方



 「2014年、夏に製作した大作「スピード・ストラクチャー」を完成させて以降、作品らしい作品を何も作らずに半年以上経ってしまいました。1年以上作らなかった時もあるくらいで特別珍しい事ではなく、大作を作った後にはよくあることです。
 その間アーティストとして何もしていなかったかというと、そうではなく、作品について色々と考えを巡らせていました。頭の中では活発に動いているのですが、まだ形になっていないだけ。いや、既に形にはなっているのだけれど、体を使って誰にでも見せることができる“作品”という形にしていないだけです。自分ではそんな時間を「熟成期」と呼んでいますが、側から見るとのんびりしていて気楽なものだ、と思われているかもしれません。

 製作に追われている時には考えもつかないアイデアが生まれたり、新しい価値観を発見できたり、モヤモヤしている考えを整理したり、こういった時間って実はとても重要だと思っています。「どうやって作るか?」「素材は?」「色は?」といった実務的な問題から解放されて、「何を作るべきか?」というところまで考えを戻すことができます。そして果てには「そもそも、なぜ作るのか?」「自分の存在意義は?」なんて哲学的な考えにまで発展していきます。答えなんか出やしませんが、大作を納めることができた褒美に得ることができた貴重な時間なので、無駄にしないように、ぼんやり、のんびりしています。

 ここ最近頭の中で大きな位置を占めている考えに「信じる事の効用、本物って何?」というのがあります。
 人にはそれぞれ信じている事物があるはずです。でもその信じるものが嘘だったら?
 自分の見てきた“本物”とされるものに疑いを。信じている美意識や価値観をもう一度疑ってみよう。という自分が何処かへ消えて無くなるかもしれない大テーマです。

 昨年の11月に父が病気を患って他界したことを機に、父の思い出とともに彼の美意識について考えることが多くなりました。
 父は古美術収集が趣味で色々とコレクションをしていました。コレクションを見せる為に私設の美術館を造ったくらいに熱中し、とても勉強家でした。休日ともなると「本物を観て目を肥やすのだ」とか言って美術館や博物館に足繁く通っていたのを思い出します。枕元には常に難しそうな本が積まれていて、毎日読みながら美しい品に囲まれた幸せな夢でも見ていたのでしょう。

 まだ私が大学で工芸を学ぶ前、高校生の頃だったのでコレクションを真面目に観ていなかったのが残念でならないのですが、(というのも、コレクションは増える一方ではなくて、売っては買い売っては買い、の繰り返しなので出入りが激しいのです)かなり面白いものが有りました。記憶している中では、高台寺蒔絵の大棗、三島の茶碗、瀬戸の肩衝茶入れ、鍋島の鷺の描かれた皿、祥瑞の香合などが印象的で、なかなかの品です。

 そんな中でも、父が特に大切にしていたのが光悦の茶碗です。かなり高額で手に入れたと見え、別格の扱いをしていました。形は正に光悦独特のもので、すとんとした半筒形に箆(へら)で作為的でない見事な細工が施されています。釉薬の色もなんとも言えない飴色で、どういう加減なのか薄っすらピンク色に見える部分もあり、ただ者ではない風格というか有難い物としての趣がありました。

「出どころは確かだ。何処其処の誰が何して、云々」
「箱書がいい。これは何時代に誰が、云々」
「見ろ! この茶碗から溢れる力強さを! 気品を!」
などと、ことあるごとに解説していたので「なるほど、これは良い物だ」とすっかり信じきり、私の美の基準になってしまいました。
 事実この茶碗が、大学で工芸を学び、美術を志すきっかけを作ったのです。

 親元を離れ東京藝術大学で工芸について学ぶようになってからは、実家の骨董など思い出しもせずに充実した学生生活をおくりました。 大学の隣には東京国立博物館があります。当時藝大生はタダで入場できたのでよく通ったものです。国宝、重文が山ほどあり、しかも平日は人が少なく鑑賞には最高です。お墨付きのある美術品は安心して観ることができますね。授業のひとつ、博物館実習では実際に所蔵品に触れることもできました。
 学内には美術の専門家が沢山いて何でも聞ける環境です。実習、講義と毎日美術漬けの環境に4、5年もいれば、当然、知識も目も肥えてきます(多分)。

 夏休みと正月など年に数度は実家に帰り、父の愛するコレクションと対面するのですが、どうも以前のように有難く観ることができません。  
 銘の無い工芸品は作りの良し悪しで判断できるので良しとして、問題なのは銘のある作品、光悦の茶碗、日蓮の軸物、光琳の硯箱です。  
 有難く思えないばかりか、恥ずかしくさえ思えてくるのです。  

 古美術には贋作が多くあるのも知っていますし、作品数が少なく貴重なことも知っています。そもそもこんな田舎に国宝級が有るわけも無い。疑いは増すばかりです。  
 父の手前「これは価値の無いものです。贋作でしょう」などとは言いませんでしたが、私の気持ちを察したのでしょうか、父は逆にコレクションの良いところを見つけて熱く語る始末。なにせ自分の眼識を信じていますから。  
 当時は冷静に判断できる自分の方が正しく、騙されている(本当のところは今も解りません)父が哀れでならなかったのです。
 でも最近思うのです。美術品と対時する時、どちらが正しい姿勢なのだろうと。学び方によって美しく輝いて見えていたものがくすんでしまうこと、これって正しいことなのでしょうか?
 物の価値って、自然が作り上げた絶対的なものではなくて、誰か人間が決めたものであるはず。それを全ての人に、共通な尺度として押し付けてしまっていいものなのだろうか?
 信じることによって輝いてみえるって、実はとても素晴らしいことなのではないかと。キラキラした父の目を思い出すたびにそう思うのです。