共同アトリエのこと

 1994年に中山ダイスケ、須田悦弘、笠原出、藤原隆弘、中村の5人で始まった「スタジオ食堂」という名の共同アトリエ生活は、日々刺激と発見の連続でした。
 1994年というとバブル崩壊による景気後退から世の中全体がどんよりとしていて、翌年に起こる阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件など、嵐の前の静けさというか、低い地響きがずっと続いているような、そんな時代であったように思います。
 一方で、今までの価値観が崩壊していくに伴って、新しい「何か」を望んでいるかのような気運も感じられ、共同アトリエに集った5人は、未知のアートへの意欲に沸き立っていました。とにかくギラギラしていました。

 慣れや常識というものが、作品をつくる上でどれだけ障害になっているか、ということをよく考えます。無意識のうちに当然と信じ込んでいるルールや規則が、日常生活の中に張り巡らされています。そして、環境によってそれらは増えていくのです。

 突き抜けた表現をする為には、普段いかに自身がそれらに拘束され、表現の幅を狭められているかを認識する必要があります。気付くことによって一つひとつ、目には見えない「足枷」を自分で外し、より束縛のない環境を整えることが重要です。私の場合、幸運なことに他のアーティストとアトリエをシェアすることによって、多くの「足枷」に気付くことが出来ました。

 制作場所となったのは、立川駅北口近くにあった巨大なミシン工場の跡地です。なかでも特に適していそうな場所だったのが、社員食堂であった空間です。なにしろ300坪は優にあり、天井高約6メートルという体育館並のスペースで、手はじめにみんなでサッカーをやったぐらいです。また、広い厨房には大きな換気扇、さらにはスタッフが休む小部屋が幾つもありました。

 よく「日本人作家の作品スケール」という言葉を耳にしますが、これだけの広さがあれば、世界基準の発想ができそうです。現に、このアトリエから数多くの巨大な作品が生まれました。大きな作品をつくることが目的ではありませんが、制作する環境が作品に及ぼす影響は極力小さいほうがいい。何の制約もなく、つくりたい作品をつくり始められるのが私の理想です。

 日頃どのようなスケール感で作品と接しているのか―このアトリエで、ひと際面白い取り組みをしていたのが須田悦弘君です。彼はだだっ広い空間の中にぽつりと小さなデスクを置き、ひたすら手のひらほど小さな植物の木彫作品をつくります。何も広いスタジオでつくらないでも……とお思いでしょうが、彼はこの広大な空間の中でなお、広さに引っぱられること無く自分のスケール感を持ちつづけ、制作に打ち込んでいました。
 別の見方をすれば、大いに空間を利用していたのです。彼の展示を観た方ならお分かりいただけると思いますが、小さな木彫で展示スペース全体を利用した大きなインスタレーションは、まさにこのアトリエが発想の原点であると確信しています。

 制作スタイルも5人5様でした。毎日同じ時間にやって来てコツコツと制作に励む者。とりあえず来るけれど、何もしないで遅くまで居る者。頻繁にお客様を招き、何やら計画している者、等々。自分はといえば、そのどれでもありどれでもないような……なんとも中途半端な感じでした。今思えばこの時期に、他の4人のアーティストたちの動向を観察することも、重要な勉強であったような気がします。

 中山ダイスケ君はアトリエのリーダー的存在。作品をつくることはもちろん、いつ、どこで、どのように発表し、どのように作品を社会とコミットさせるかについて誰よりも考え、実行します。彼の発案でアトリエ内を壁で仕切り、一般のギャラリーほどの展示スペースをつくりました。これはごく限られたゲスト用のもので、主にギャラリスト、美術館の学芸員の為のスペースです。せっかくスペースがあるのだから、書類によるプレゼンではなく、現物を見てもらおう、というわけです。
 私は彼から「アーティストは制作とともに、セルフ・プロモーションも同時にやらねばならん」というメッセージをしっかり受け取りました。確かに実際の展示作品を見せるプレゼンには効果があり、後にメンバーそれぞれが次々とユニークな企画を実現していくことになります。

 ところが1996年、工場建屋の取り壊しを理由に立ち退きを命じられ、立川市立飛地区にアトリエを移転します。その場所は立飛企業株式会社(現・株式会社立飛ホールディング)という、28万坪を持つ不動産賃貸業を営む企業が管理する倉庫です。太平洋戦争以前には、大日本帝国陸軍向けの航空機をつくっていたようです。今では敷地内をモノレールが走り、上からその広大な敷地を一望することができますが、当時はフェンス越しに古い建物が随所に見られるだけで、一般人が立ち入れないようなナゾの一帯でした。
 秘密基地のような新しいアトリエではメンバーも増え、企業の助成を受けながら、活動の幅を広げていきます。「地域の機関および住民との交流を社会との関係を築く第一歩と考え、スタジオ食堂が存在する立川市との連携、また地域住民との交流を推進する。」条文のもと、制作場所の公開や、国内外のアーティストによる企画展の開催、それに外部から講師を招いたレクチャーや近隣住民との懇親会などを行ったりもしました。環境と場所は変わっても、未知のアートへの意欲は変わらず、日々制作とディスカッションの日々が続きました。

 今にして思えば、これら活動のすべてが、僕ら「スタジオ食堂」メンバーの血となり肉となる貴重な経験だったように思います。





 1994年から2000年まで、およそ6年間にわたるトレーニング期間のお話でした。