鎌倉でお世話になった材木座にある浄土宗の光明寺には私はかつて、植村和堂さんと加藤湘堂さんが主宰していた勉強会に同席させてもらったことがあった。現在は毎月第二水曜日に写経会が開かれている。般若心経のほかに浄土宗で主に書写されている「仏説無量寿経四誓偈」があるという説明を受けたので、ためらうことなく後者を選んだ。「われ超世の願を建つ、必ず無上道に至らん」に始まり、ひとりも漏れなく貧苦から救われ、善趣の門に達することができることなどが説かれている。
同時間帯にいたのは中高年の婦人が五、六名ほど。手本は弾むような筆力に特徴があった。二百二十字と文字数が多いため、途中で休息を適宜取って心身を整える必要があるが、教えに導かれて書き終えたときの充実感はひとしおのものがあった。
写経が文化として広く定着した結果、それができる寺院が増えている。全国でたぶん百五十寺近くあるのではなかろうか。鎌倉でも前記した光明寺のほか、長谷寺、円覚寺仏日庵、妙本寺などがある。インターネット時代を迎え、東京都豊島区の金剛院のように「電子写経」「ネット写経」を取り入れている寺院もいくつか現われている。
写経をしないと拝観できない寺さえある。「苔寺」の名で親しまれている京都の西芳寺は現在そうであり、なおかつ予約制。私の知人が同寺を訪れたときドイツ人を連れてきた人が来たが、予約がないということですげなく断られていたとのこと。
写経をしていると、書写という務めが単に文字面をなぞっているのではないことに深く納得する。まさに一字一仏。書写を介して私たちは仏の教えを反芻しているのである。
これは書の訓練では必須の臨書も同様であろう。その名典を書いた書人の想いや息遣いに感応することにこそ臨書の意義がある。
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