高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
文字のいずまい
vol.9

文化として定着した「写経」の恩沢
臼田捷治(デザインジャーナリスト)
 年秋に日本公開されて話題を集めた韓国映画「春夏秋冬そして春」(キム・ギドク監督)に尋常ならざる写経シーンがあった。
 の男に走った妻を殺した青年が、幼少年期を過ごした山間の湖に浮かぶ庵に逃亡犯として戻ってきて自殺をはかろうとする。庵の主であり、長年修行生活を送っている老僧は青年にとっては父親のような存在であるが、それを制止しながら、青年に向かって「愚か者め、目を覚ませ」と叱咤する。そして、飼い猫の尻尾の先に墨を浸して寺の四周をめぐる床に経文(般若心経)を書き、「この文字をナイフで彫って怒りの心を消すのだ」と命じる。青年はそのとおりに一字ずつ懸命に彫り込んでいく。途中で犯人を追う刑事ふたりがやってくるのだが、ひとまず作業を見守る。夜を徹しての刻字が続く。明け方、青年は彫り終えると、務めを果たした法悦と極度の疲労の末に、倒れ込んだまま眠ってしまう。手には血がにじんでいる。この間、老僧と刑事たちは彫られた文字に顔料を塗る。やがて、朝日が周囲を明るく染めるころ、青年は起され、刑事に連行されて庵を後にする……。
奈良・東大寺本坊内にある写経道場
 画とはいえ、それはまことに激しくも傷ましいシーンだった。
 戸内寂聴さんのエッセイ(「写経と私」、『日本の美術一五六・写経』)に出てくる、伝教大師最澄の直弟子で延暦寺第三世座主となる慈覚大師円仁の、入定生活の一環であった奥比叡における写経も、身を削るような凄絶なものであったようだ。寂聴さんの記述によると「草心を集めて筆をつくり、岩のくぼみに石墨をこすりつけて墨とし、庭に植えた楮で紙を漉き、一字ごとに三度礼拝をくりかえしながら、法華経八巻六万八千余字を書写しつくした」。
 の苦行のため円仁はやせ衰え、視力も弱って死にかけたが、夢に天人が現われて薬を与えられた結果、快方に向かったのだという。
 経がブームだといわれて久しい。そして私たちがそのブームの恩沢にあずかって体験する通常の書写は、幸いにもというべきであろうか、韓国映画や円仁のそれのような苦しみを伴わない。諸寺院の行き届いた心遣いのもとで、終始平穏な状況下で済ますことができるのである。
 は先般、奈良と鎌倉の名刹で久しぶりに写経を体験した。ひとつに奈良の地を選んだのは、奈良時代に光明皇后のもとに置かれた皇后宮職の写経機関が東大寺写経所として引き継がれ、もうひとつの内裏系統の機関とともに大規模な写経事業として営まれた結果、わが国の仏教の興隆と識字運動に寄与したという縁にあやかりたいという気持ちが強くあったからである。
 
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