「元々芸と云う物は、風格の事を云う物で、あたかも文字の如く、鉛筆で書くのも字で、ペンで書くのも字である。また、縦に書くのも字で、横に書くのも字である。ただそれは読めるだけの字で、即ち字を書くと云う芸術には、先ずその字の風格を学ばねばならぬ。その風格には、この芸術に幾多の研究をして苦労を積んだ、先ず『王羲之』とか『文徴明』とか『趙子昂』とか『董其昌』とか云うて、楷聖草聖と云うような先輩が沢山ある。(中略)先ずそれを学んでこそ、芸術の道に入ったと言わるるのである。それを一切無視して、『古人も人間で、一派を出したのである。俺も人間であるから、コウ云う風に書画を書いて、一派を出すのじゃ』と、大声疾呼して勝手気儘に自分の思うた通りに書く者が、今で云うなら朦朧画、書なら金釘流である。無学な百姓町人の日記も帳面付けも、字は字である。即ち今の学生の鉛筆やペンの筆記も字は字であるが、字という風格は少しもないのである。その拠る処のある風格を書かねばならぬから、修業と云う事が必要となって来るのである」。
文中にある「朦朧画」は横山大観、菱田春草らが深めたいわゆる「没線描法」。日本画の新しい可能性を開いた技法である。著者の揶揄は偏見というべきであるが、修業を通じての風格の形成の大切さを一貫して説いているところは、芸術全般に通じる指針たりうる普遍性をそなえている。書に携わる人にもじつに示唆に富む本だといえるのではないだろうか。
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