事は単純ではないことを承知しているつもりだが、私は無条件にグラフィティを容認しようとは思わないし、だからといってすべてを排除しようとする立場にも与しない。自由な表現への欲求は、上述のメッセージのように国境を超えて共通だからである。しかも、若い世代ほど経済的な制約があって発表の場に恵まれないのだから。そして私は、グラフィティ独特の文字表現における大胆なスタイルに注目したい。アメリカ・オークランドのあるライターは次のようにその特徴を吐露している。
「グラフィティ・アーティストは現代の書家―カリグラファー―と言えるだろう。いろんな文字を本当に面白く変型させてさ、イメージから文字を作り上げてさ、イメージとテクストを一つになるまで溶け合わせるんだからさ。(後略)」(前出『現代思想』誌より)
文字のイメージ解釈とその構成術における自在さは、ライター自身のサイン的表現では、見苦しいものが多いのが難点ではあるけれども、「現代の花押」を思わせる。日露戦争海戦において日本に奇蹟的な勝利をもたらした聯合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥が自身の花押を、アルファベットの組み合わせで揮毫していたことを彷彿とさせるといったら、軍神に失礼だろうか。
図像的な表現と一体化した文字表現はさらにユニーク。かつてないイメージの飛翔が試みられているからだ。現代の書の可能性という観点から眺めても、グラフィティには意外なヒントが隠されているように思えてならない。
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