高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
文字のいずまい
vol.3

「現代の花押」としてのグラフィティ
臼田捷治(デザインジャーナリスト)
 の春、初めてニューヨークに行ってきた。現地で三泊のみ、丸一日動けたのは二日間という超短のスケジュールだった。旅の目的のひとつに、ハーレム地区のグラフィティ(落書きアート)のメッカ「グラフィティ・ホール・オブ・フェイム」(グラフィティの殿堂)を見ることがあった。マンハッタン島の北寄り、東百六丁目通りとパーク・アベニューが交差する一画にその殿堂はある。そこはアフリカ系もしくはスパニッシュ系アメリカ人が多く居住するハーレムの東南端部分に位置し、作品発表の場として解放されている。
 品はコミュニティセンターである建物(元は中学校)の外塀や壁面、コンクリートで固めた内庭の壁などを隙間なく埋め尽くしていた。年一回、六月にアーティストたちが集まってイベントを行うのだという。いくつものブロックに分かれて、カラフルかつダイナミックで、固有の力強い描写が連続している。しかも、それぞれが完結した世界を誇示しながら、謎めいた神秘性をたたえていることでは共通している。文字(アルファベット)も読めそうでいて読めないものが多い。しかし、わずかながら判読できるものもある。
ニューヨーク・ハーレム地区の
「グラフィティ・ホール・オブ・フェイム」
横浜市・桜木町駅近くの高架下側壁グラフィティ
とその下に書かれているメッセージ
  九六○年代後半、ニューヨークのアフリカ系と中南米系の若者たちによって始まったグラフィティ。そのきっかけは、彼等が住む地域を容赦なく貫通したハイウェイ建設だったという。若者たちは暴力的に立ちはだかる白い壁を美化しようと行動を起した(『現代思想』二○○三年十月号「グラフィティ」特集、高祖岩三郎「『その名』を公共圏に記しつづけよ!」)。いうならば行政当局不認可のパブリックアートだった。美化運動の対象はニューヨーク中に広がり、若者たちのグローバルな表現活動としてやがて世界に波及していったことは、私たちがヨーロッパ各地を旅行しても実感するところであるし、何よりも日本の都市で日々、かいま見ているとおりである。
 回は短いニューヨーク滞在だったため、他の地区のグラフィティを見て回る余裕もなくて速断は禁物であるが、規制の強化の結果だろうか、マンハンタン島中心部ではあまりグラフィティを見かけなかったという印象が強い。とくにかつては主要な発表の舞台であった地下鉄は皆無に近かった。一九八○年代後半に当局から徹底的な取り締まりを受けて、「落書きなき地下鉄」宣言が発せられた状態がその後も続いているようだ。  
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