折角のテーマなのに、読んでいて歯がゆい思いをすることがある。筆者にとっては三回り以上も若い世代にあたる島本理生の『リトル・バイ・リトル』(同)をある必要があって読んだ。大学受験浪人中の少女の日常を追ったさわやかな小説であるが、作中で少女が近所の習字教室に通う場面が出てくる。しかしその描写はさらりとした淡泊さで拍子抜けした。そのような軽さこそが若い世代の共感を広く呼んだ由縁であることは理解できるのであるが……。
同様に、ヒロインが楷書に優れた書道家という設定の渡辺淳一『失楽園』(同)。社会的な事象となるほどの話題を集めた小説だが、楷書を究めたことがヒロインの内面形成になんらかの痕跡を残しているはずなのに、そうした相関についてまったくといってよいほどに触れていないことに失望を感じたものだった。
本格的な書芸家小説は少ないといってよいのではなかろうか。筆者が知っているのは、書と画のふたつを究めようとする東アジア固有の芸術家像に真っ向から挑んだ、韓国の作家、李文烈の中編「金翅鳥」である(情報センター出版局『われらの歪んだ英雄』所収)。韓国書道の巨人、金秋史の学統を継ぐ師との愛憎を乗り越えて高い精神世界を獲得するに至るまでのひとりの書画家の苦闘を、迫真の筆致で跡づけている。
日本でもこうしたまっとうな書芸家小説がもっと現れてほしいものである。大上段な物言いになるが、書芸は私たちの文化のオリジンを支えてきたのだから。
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