現代文学は「書」や「文字」とかかわるテーマをどのように扱っているのであろうか? 文字を書いたり、その書き文字を介して他者もしくは第三者とコミュニケーションをとる習慣は、電子テクノロジーの進展によって次第に減少傾向にあるとはいえ、人間の初源かつ不変の営みのはずである。その「書字」への小説家の問題意識はいまどのような位相にあるのか、近年の文学作品を例に検証してみよう。
昨年の読書界の話題をさらった作品のひとつに、高行健の『霊山』(集英社)がある。中国人初のノーベル文学賞を受賞し、現在はパリに住む作家の記念碑的大作。中国西南部を中心に行方定まらぬ旅を続ける知識人の彷徨録である。正面から書字を取り上げてはいないが、随所を彩る挿話がじつにおもしろい。伝説上の聖王「禹」が通ったとされるある舟の渡し場にあった、「十七個のオタマジャクシのような古代文字が残っていた」丸い石碑は橋をつくるときに石が必要になったため破壊されてしまった、あるところの漢墓群の墓碑は付近の農民によって豚小屋の資材にされてしまった、あるいは、石の亀の上に乗っていた古い石碑は碾き臼にされてしまったといった悲喜劇に事欠かない。清代の文人画家で書家の〓賢が到達した世界への共感も綴られている。「世俗を超越し、これと争わなかったからこそ、本性を保つことができた」と。中国三千年の歴史と記憶の古層を、あたかも手品師のように次々と引き出す才覚は水際だっている。
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