高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
文字のいずまい
vol.1
現代小説は「書字」をどう扱っているのか?
臼田捷治(デザインジャーナリスト)
  代文学は「書」や「文字」とかかわるテーマをどのように扱っているのであろうか? 文字を書いたり、その書き文字を介して他者もしくは第三者とコミュニケーションをとる習慣は、電子テクノロジーの進展によって次第に減少傾向にあるとはいえ、人間の初源かつ不変の営みのはずである。その「書字」への小説家の問題意識はいまどのような位相にあるのか、近年の文学作品を例に検証してみよう。
 年の読書界の話題をさらった作品のひとつに、高行健の『霊山』(集英社)がある。中国人初のノーベル文学賞を受賞し、現在はパリに住む作家の記念碑的大作。中国西南部を中心に行方定まらぬ旅を続ける知識人の彷徨録である。正面から書字を取り上げてはいないが、随所を彩る挿話がじつにおもしろい。伝説上の聖王「禹」が通ったとされるある舟の渡し場にあった、「十七個のオタマジャクシのような古代文字が残っていた」丸い石碑は橋をつくるときに石が必要になったため破壊されてしまった、あるところの漢墓群の墓碑は付近の農民によって豚小屋の資材にされてしまった、あるいは、石の亀の上に乗っていた古い石碑は碾き臼にされてしまったといった悲喜劇に事欠かない。清代の文人画家で書家の〓賢が到達した世界への共感も綴られている。「世俗を超越し、これと争わなかったからこそ、本性を保つことができた」と。中国三千年の歴史と記憶の古層を、あたかも手品師のように次々と引き出す才覚は水際だっている。
  本の小説に目を転じると、たとえば村松友 の『烏丸ものがたり』(河出書房新社)。舞台は現代であるが、書名からも類推できるように江戸初期の公家書家である烏丸光廣を俎上に載せ、駿河は三保の松原や興津の清見寺を背景として、「密通」事件や「男色」問題などを絡めながらその生涯の謎に迫っている。「初期の書と晩期の書では、とても同一人物の手によるものとは思えぬ趣きの違いが……」といった光廣の書の分析とか、「さほど頭がよくなくて性格が悪くても、何ともいえずいい字を書く奴っていたものなあ」といった、含蓄ある語り口に魅せられる。
 っ向から書字に迫った小説ではなくとも、私たちの琴線に触れるような描写にぶつかると得をした気分になる。女性で初めて文化勲章を受賞した京都生まれの日本画家、上村松園(作中では「松翠」)がモデルの宮尾登美子『序の舞』(朝日新聞社)。このなかに画家の母親が、娘と同門である青年(「村上さん」)からもらった絵を見てつぶやくシーンがある。
「悪いけど、村上さんは絵よりお人柄のほうが上どすなあ。ほら絵描きは字書き、いいますやろ。絵の巧いおひとは必ず字も上手どっせ。この絵はともかくとして、わきに書いたある『松翠女史を写す』という村上さんのこのお筆蹟、絵描きさんのおてとは思われへんものなあ」
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