19. 夜警
六畳の小さな角部屋は古い借間だけれども作りが変わっていて、腰掛けることの出来る出窓があった。
静かに沈殿した、ビーカーの底の白濁のような住宅街。向い側の丘の頂点に教会がある。そこに夕陽が沈んでいく。ここも丘、向こうも丘だ。この窓の、彼女の上から一直線に赤い飛行機雲が落下していく。夕暮からは横向きに腰掛けたまま外を眺め、置物のようにそこから動かない。
擂鉢状の地形の下の道の隙間を、車や自転車が通る。小学校からまだ子供達の騒ぎ声が聞こえる。風には古い生糸やカーディガンの匂いが混じる。どこかの夕飯の支度の豆腐めいた匂いもする。坂の途中には棕櫚のある邸宅、深紅の間接照明の窓の家、垣に南天のなる家、和風の窓に洋風の窓がもう一層重なっている家などがある。毎日その通りを眺める彼女は、その配列や佇まいを覚えている。
赤い空が濁りながら青くなってゆく。
どこかのアパートの部屋で、玄関のチャイムが鳴っている。鳴らす者の姿は見えないまま、空気の中に音だけが、一軒一軒距離感を縮め近づいてくる。うちにも来る、と思った時に、ちょうどそれは彼女の部屋で鳴った。停滞している幾多の支払い。彼女は身を強ばらせた。
二度それは遠慮がちに鳴った。この奥ゆかしい鳴らし方は、何かの集金などではなく、セールスの類いだろう。息を潜め、応えずにいた。向こうはひょっとすると、窓から外を見ている自分を、どこかから目撃していたかもしれない。踵のある靴を履いた訪ね主が、玄関先からきびすを返す音がした。次のドアの前でも、扉を開けてもらえなかったようだ。その人物がとぼとぼと下の坂を通って帰路につくところを目撃しよう、と暗くなるまで待っていたが、わからなかった。
チャイムに扉を開けセールスに応じる気力はないくせに彼女は、その人物の後姿に人間の孤独を確認したかった。もうその夜まで、人影一つ、その坂を通りはしなかった。
蟻地獄の谷底に宝石がぽつぽつ散らばったような夜。誰もが雨戸を閉める用心のいいこの町に、門灯だけが目を光らせ覚醒している。付近の寮や社宅の独身者の営みが、繊細な秒針の微動とともに伝わってくる気がする。先ほどからどこかへ忙しく向かっていたサイレンの音が、まだかすかに夜空の下を駆け巡っている。
私鉄電車の光の筋が遠い断崖の上を斜めによぎる。大気が夜を渡ってゆく音ならぬ音がこの時間を一層白々とさせる。誰も知らない心の闇を、自分の内部で迷い抜くうちはまだいい。心の闇が現実の地理上に投影されることの孤独を、いまの自分は生きている、と彼女は感じた。
在学時も就労してからも何の熱情にも縁の薄かった彼女の日常が、それらを何もかもやめてしまったとしてもさほど変わろうはずもなく、疎外感は更に世界に吹き晒された。逃げるでもなく探すでもない、何を見つけるためのような、同時に何かに見つけられるのを恐れるような、そんな気持。
彼女は何者でもなかった。町を徘徊しようと家に籠っていようと、誰ひとり自分を気にする人間も認識する人間もいないように感じられた。
友人と呼べるような友人は、せわしなく話しかけてくれた前の職場の男性だけだったのだろうか。しかし深い話も印象的な会話もあまり残っていない。冷たい空気が部屋に流れ込んでも彼女は窓を閉めず、いつものように夜空を観ている。あの人はそんな癖を笑ったことがあった、と思い出した。何を熱心に空を観ているのかと聞かれ、流れ星、と答えると、ああ流星群のこと?今どき「流れ星」って言い方する?と笑われた。彼女はそれだけで何となくプライドを傷つけられ、心を頑にするようなところがあった。今思えば、それも彼が話を続けるための配慮だったのかもしれない。しかしそんなことも、もう遠い日のことだ。
暗がりの道を誰かが大袈裟な動きでよぎっていった。それは通勤帰りの住人の歩き方とは少し違う、と彼女は瞬間的に思った。思うや否や、付近の建物でけたたましく非常ベルが鳴り始めた。それが伝播するように、もう少し先、また少し先の二カ所ほどのところにある建物でも非常ベルが鳴り始めた。
火事かと身を乗り出して様子を窺っていたが、空気の中に焦げ臭い匂いがあるわけでも、煙の気配があるわけでもない。擂鉢状の地形にこだまする非常音に、付近の住人が心配そうに通りに出て様子を窺うが、原因もわからないらしい。
普段は無関心そうな住人達が寄り合って噂をしあったり連れ立って何かを探したりする輪を、彼女は離れたところで無言劇のように眺めながら、奇妙に心が沸くような気持になっていた。が、住民達の中ではおそらく「このベル騒ぎは何かの間違いなのだろう」ということになったらしい。音の鳴り止まぬまま、人の輪は解けそれぞれの灯の中に戻って行った。同時に、彼女の心にも一抹の淋しさがまた戻ってきた。
空気の流れのせいなのか、ベルの音は大きくなるような小さくなるような妙な波動で闇を支配し続け、それが音ではなく何か視覚的な模様とさえ感じられた。
そのとき、鋭く低い「おい」と言う男の叫び声で彼女は我にかえった。
そのとき彼女の頭の中には、非常ベルを悪戯する犯人が逃げ回る像が広がっていた。付近の住人が犯人に声をかけて捕らえようとする「おい」なのだと思い、闇の中に目を凝らしてみると、それは違った。
顔のわからない男の影が、下の通りの少し遠い場所に佇んでいる。こちらを凝視しているようだ。彼女はそれでも自分に掛けられた呼声だとは思わなかった。
「おい、そこの窓。あんただ」
初めて、矢で射抜かれたように身を強ばらせた。男は明らかに人差し指で自分を指している。
「あんたなのか」
彼女は固まったまま、男の言葉の意を理解しようとしたが、返答がすぐには出てこなかった。彼女が非常ベルを鳴らしたとでも言いたいのだろうか。暗闇に目が慣れてきても、男の人相は影になってわからない。鳥打帽のようなものを目深にかぶりマフラーをしている。ぞろっとした大きな上着を着ているが、足下はゲートルをまいた兵隊のような形をしている。年齢もわからない。そしてその呼声の裏にある感情が疑念なのか警戒なのか、それほどのものでもないのか、という感覚が読み取れない。
咄嗟に思ったのは「夜警」という言葉だった。郷里で暮れの季節になると、火消しのような出で立ちで集落の男達が火の用心を呼びかけてまわった夜警団。声の主はそのような男なのだと思ったが、集団ではなく一人であり、ただの通行人というには何か仰々しい佇まいに思えた。
「あんたか」
朗々と通る声がもう一度響いてきたので、彼女はやっとの思いで、
「私ではありません」
と叫ぶと窓を閉めた。何故か震えが止まらなかった。何をもって彼女を名指しし、彼女も何を「自分ではない」と否定したのか、わからなかった。そんなことよりもあの男の眼差しがはっきりと自分だけを対象としていた、ということに彼女は震えた。その夜、彼女は熱を出した。
◆
発熱による気怠い疼痛は続いた。夢うつつの脳裏に、あの夜警の男の影が繰り返し浮かんだ。
おい、という傍若無人な声色は不快だった。悪戯の嫌疑を掛けられたことへの怒りもあり、思い出すたび、そのときの身体の震えまで蘇るようだった。それでいながら彼女自身、身体があの戦慄をもう一度求めているように思えた。何もない、滑り落ちていくだけのような無為の日常に、突然切先を向けられた瞬間だったからかもしれない。
あれから三日目の夜、寝間着姿でまた窓辺に座って外を眺めていた。以前よりも更に耳が敏感になり、どんな外気に混じる音をも逃さないような気がした。夕闇の中を誰かが掛けていく遠い音に、その息づかいまで混じるように思った。車の走り去る音、訪問客が誰かの家の扉をたたいて呼ぶ音、夕暮の短時間の全ての動きは、自分に因果のある出来事と感じられてきた。
非常ベルを鳴らした主は、何故あんな悪戯をしたのだろう。いくつかの建物で連続的に起こったのだから、あれは機械の故障ではなかっただろう。自分を呼び止めたあの人影こそ悪戯の犯人であり、濡れ衣を着せるためにあんな真似をしたのではないか。
そう考えている彼女の目が、一点に吸い込まれるように止まった。
いる。
あの人影が、今日もいる。
夜警の影は、今度は彼女に向かって声をかけることはなく、じっとこちらを見ているだけだ。
彼女は息をのんだ。何か重大事件の凶悪犯として、刑事に張り込みをされているようだった。身に覚えもないゆえに、窓を慌てて閉めたりこちらから語りかけたりするような動きをするわけにもいかなかった。人影と彼女はある一定の距離から全く動かぬまま黙って対峙し、見つめあうだけだった。
時間にするとほんの二、三分のことかもしれないが、夜警と見合っていた時間は永遠のように感じられた。夜警は、何か言いたいが言わぬというような足取りでゆっくりとその場を去り、人家の影に消えた。
何の足音もしない人影だった。佇んでいる間は威圧的なほど存在感があるのに、消えると同時にそれは幻影のように感じられてきて、改めて彼女は悪寒を感じた。
◆
彼女はその日から、窓際で夜警の人影を待つようになった。
しかしそれ以来、夜警が現れることはなかった。はじめは彼女自身、掛けられた悪戯の嫌疑が冤罪であることを証明するためにあの人影と対峙したいのだ、と思った。しかし次第に、それは違うように感じられてきた。
おい、という声とともにこちらを真直ぐ指し示した手つき。あんた、と自分をはっきり認識して選んで見つめている視線。そういうものに貫かれることじたいが、いまの彼女には気の遠くなるほど心を揺さぶるものだった。
自分を怪しんだ男の疑いが些細で浅いものだった、とは思いたくなかった。もっと自分に張り付いて自分の行動を推理し、心理を読み、何かを暴いて欲しいとさえ感じた。そもそも彼女自身は何の罪も犯してはおらず、ただ町の悪戯騒ぎの傍観者に過ぎなかった。しかし、全てのものが嵐のようにざわめく中で、ある一つの視線と手だけがはっきりと自分を捕まえ渦の中に引きずり込むような、それに身を任せてしまいたいような欲望に近いものを感じ始めたのだった。
響き渡った夜警の声は、時にはとても懐かしい郷里の川の怒濤の反響のように、時には自分の傍で語りかける父や兄のように思い出された。またもっと懐かしいのは、自分を時折叱りつけた厳しくも優しい死んだ祖父なのかもしれなかった。
彼女は夕飯の買物帰りに、無意味に町をうろつくようになった。夕闇が近づき、道ゆく人の顔つきがおぼろげになっていけば行くほど、心は妖しく揺れた。それらは、あの日自分を呼び止めた人影に近づいていくように思えた。
しかし、あの夜警の人物と行き会うことはなかった。この町の住民が自主的なパトロールのために歩いていたのだとしたら、いつか行き会ってもおかしくない。一度ならばありきたりのことでも、次の日も自分をじっと見つめていたあの影の一抹の執念に、彼女は拘泥した。
人影を待つだけではなく、あの夜の再現をも待った。なに一つ事件など起こりそうもない退屈な町での、住人のつかのまの同盟感。なに一つ動きのあることを考えたくもなかった自分の、なにかを覆す動揺。得体の知れないものから名指され、選ばれて見つめられる戦慄。些細なことだとしても、それらの出来事の裂け目の先には、自分が持ち得ぬ深い存在同士の意思疎通がある気がした。
もう一度あの夜のように、誰かが非常ベルを押してはくれないだろうか。ことの始めに見かけた気のする、悪戯の犯人らしき人影をも、彼女は待ち望んだ。
◆
町に非常ベルが響き渡った。
また悪戯かというように、帰宅したばかりの家の主や料理の手を止めた女達が、玄関先から顔をのぞかせた。火の気配はどこにもなかった。
マンションやアパートの蛍光灯の点る時間帯を、彼女は知っていた。毎日窓から町を眺めていると、自然にその空と灯の光のリズムを覚える。暗くなりきる少し手前の時間、まだ廊下の薄暗いマンションやアパートを、彼女は選んだ。
赤い非常扉を無表情に操作しては、彼女はボタンを押した。
会いたい人に会うために半鐘を鳴らす、「八百屋お七」の話を彼女は思い出した。
しかし別段、自分を捕まえようとするような追手の足音も騒ぎ声も、彼女の耳には届いてこなかった。それを、たまらなく淋しく感じた。わざと通りを走って逃げるような素振りをしても、誰もその通りにはいない。不意の感触に、肩をつかまれたかと驚愕するが、それは自分のマフラーが跳ね返っただけだった。
息を切らせ遠い公園まで辿り着いた頃、町の非常ベル騒ぎは一段落したようだった。しかしそれと入れ替わるように、本当の消防車のサイレンが鳴り始めた。
鼠色の空に黒い煙が立ち上っているのが見えた。
彼女はのどの奥で息を吸い込むような声を上げた。何度も、自分の行動を繰り返し思い返した。自分の押したのは非常ボタンであり、火をつけるようなことはもちろんせず、火元に近いような場所にも行っていないはずだ。それは自分で理解していたが、何か取り返しのつかない本当の嫌疑が自分にかかることを、免れられそうにない気がしてきた。
彼女はふらつきながら、どこへともなくまた歩き出した。まだ彼女を怪しんで追って来る者も、火事の野次馬も見当たらない。
どこへ行こう。あの火事はどこなのだろうか。家の付近だろうか。誰かが火をつけたのだろうか。私ではない、私ではない……
ひょっとすると非常ベルを押した自分の行為は、翻って、災害を予言した善行と見なされるのではないか。いや、そんなこともないだろう。様々な思いが駆け巡った。
あの日悪戯をしたのは彼女ではない、この火事の原因も彼女とは関係がない。しかしながら彼女はそれが、自分の中にある孤独と同じものの連鎖で引き継がれている連続事件のように思えてきた。あんたか、と名指しした人影は、その同じものを彼女の中に見抜いたから彼女を指差したのではなかったか。
ふと空を見上げると、黒い煙が人の形のように見えた。
それは、求めていたあの日の人影としか思えなかった。黒雲の間にひらめく月明かりが、目をそらさず自分を睥睨しているあの日の目つきのように見えて、それは黒雲の真下で燃え上がっているであろう炎の美しさのようにも思われてきて、彼女は涙ぐんだ。