18. 墓標売り




世界中に、薄い埃が溜まったようだ。曖昧な生成色の靄の中を列車はゆく。
砂と空とは、境目も決めずに相容れあう。砂州はやがて干潟になって、だらだらと海になっていく。
車窓からの風景、窓枠の中にやけに長く君臨している遠い工場からは、何らかの白い粉末が定期的に空に舞い、螺旋に流れる黒煙がそこに絡み付いている。


私をその海の駅に呼んだのは「義弟」だ。
死んだ妻の、彼にとっては実の姉の、遺品の整理についての相談だ、と電話をよこしてきた。
以前の義弟の記憶というものが、全くない。
突然の電話も、夢の中からとつぜんこちらに掛かってきたような気がする。確かに昔に聞き知った声だとも思うのだが、そもそもその電話が、何日前のどんな時間帯にあったかさえ覚束ない。おぼろげな声の輪郭と手帳につけられた予定の事実がなぞれるだけだ。
それほどに私は日々を、淡々と朦朧と過ごしている。もともとの気質なのかもしれない。


弟がいたという話を妻から聞いたか、聞いていなかったかも、もう思い出せない。その他の家族の話も特に記憶にないとしか、言いようがない。
互いに互いから消え入るように別離し、その後ふたたびとなる、死に別れが待っていた。
妻とは言えども、その縁の来し方も行く末も、今ではつかみどころのない遠い幻想にしか思えない。
針穴のような記憶の中に、妻が次第に心の常軌を失っていった後姿がある。それは淡くあわれな映像の断片だ。


電話の指示は何となく覚えているので、私はこうしてトランクを持っている。
この鞄に詰めた妻の奇妙な遺品の、数倍もの同じような品が、義弟のもとで待っているらしい。それは私の持て余す代物だし、顔の見えない義弟もきっと手に負えずいるのだろう。
トランクの中には、妻の創り続けた「作品」が詰まっている。
身も心もすれ違い、薄羽蜉蝣の羽根ほどに日常の交渉が薄く透明になっていった頃、彼女は木切れや身の回りのもので十字架のようなものを作るようになった。
そうなってからも、会話が成り立たなくなるまで、私は彼女を放置した。
手荒い言葉で何かを転覆すれば少しはましだったのかもしれないが、私はそうしなかった。


無意味な物体を一心不乱に創る背を見つめているとき、ふと、お前はいったい何を創っているのだ、と問うと、しばらくの沈黙ののち、
「おはか」
とか弱く、振り向きもしないまま答えた。
それが彼女についての、最後の鮮明な記憶だ。
彼女と離縁するときに私は、海の療養所に彼女を入れる手続きをしてやった。
病院の者が遥か遠路を車で迎えにきた。
その後会いにゆくこともないまま、病院から彼女の死の知らせが来た。私は遠くで冥福を祈った。


駅舎は三角屋根なのだけれども、全体を見ると正五角形を感じ、風景から浮くような不穏さがあった。褪せた観光葉書じみた薄茶色の風景の中で、駅の傍の松の木だけが永遠の緑を誇っている。
私が列車を降りて、男を義弟だとすぐわかったのは、いつか会ったとか、写真で見たことがあるとかいうことではない。
穴のような凝視。どこまでも淡い黄砂の中で、そいつの眼窩のあたりだけの、穴に嵌り込んで指で穿り出せない黒曜石のような、奇妙な光。
その目の光に、私ははっきりした記憶の糸口を見いだせなかった。それでいて初めて会うという感じもせず、向こうも何も言わない。
奇妙な背負子のようなものを背負ってきており、私のトランクをひょいと持ち上げると、三編紐にそれを括り付け、背負って歩き始めた。痩せこけて少し斜めに歩く後姿は何か卒塔婆のような輪郭をしていた。
海の土地。青空は黄色みがかって、穀物まみれの吐物のようだと思った。


義弟の家は、漁師がもともと住んでいたらしい、海辺のあばら屋だった。漁に使う網や浮子がくたびれた花に混じって散乱している。何となく違和感があるのは、どの家も灰桜色のようなペンキで板を塗っているせいだろう。
義弟は用件を切り出した。
「おれは姉のこれら“作品”を、商売しようと思う。この部屋にある“作品”は、あんたの知らない時間の中の、姉の毎日の佇まいそのものだ」


布一枚で仕切られた倉庫を彼は私に見せた。
そこにあるのは、どれもこれも、何らかの木切れや長いものの切れ端を十字形に組んだオブジェだった。
「彼女は、この海に来てからも、毎日毎日こんなものを作り続けていたのか」
「そうだ。来る日も来る日もだ。浜で拾ったもの、思い出のもの、義兄さんから送られたかつてのもの、何でも”作品”に仕立て上げた」
「他人にとってはこんなごみのようなものを、なぜ商売する。幾ら死んだ者のしたこととは言え、これを商品として売ることなど、十字架への冒涜ではないだろうか。悪いことは言わない。やめたまえ」
「それでは、あんたが全て引き取るかね」


私はそこに積み重なる、気の遠くなるほど価値の軽く存在の重い代物達からほとんど目を背けるようにして、自分でも呆れるくらいの欺瞞を口にした。
「むろん私は、一度はあれの夫だった。私にとっても、愛着のある形見だ。しかしこれを、一度別れた私が持ち続けることを、故人は望むだろうか」
「死人は何も望みはしない」
義弟はたしかに、口を閉ざしたまま瞳の中の唇で呟いた。
そして、今度はちゃんと口に出して言った。
「引き取るような義理ももうないが、自分の手で捨てるほどの不人情もない。しかしその人情芝居も自分の満足の為だ。そういう物言いは予測はしていたから、もう問わない。晩年はおれがみとったのだ。どうする気もないのなら、これらをおれに一任して欲しい」
義兄さん、実はもう店を用意してあるのだ、と、義弟は割合穏やかに打ち明けた。
私は義弟に従うことにした。
この際彼女の死の記憶までもを葬り去って欲しいような気になっていたので、彼にあれらの遺物を商売することを許した。


鈍い薄桃色の浜が続く。
黄砂にやられた病熱のような空は、今は底光りする暗い緑をしている。水平線あたりはおそらく嵐なのであろう、境がない。
ああそうだ、ここに来てからというもの、視界の中に、陸と空や海と空の境は明確にないようだ。
雨を予感する風にちぎられるように、日傘の女が、燃え上がる炎のような形態で佇んでいる。
またある者は、自転車を止めたままこちらを執拗に凝視している。動き回る盛りの子供も身体を揺らしているが、同じところに立ち、天を見ている。裏庭の海の通行人は、全て無言劇の登場人物のようだ。
皆、療養院の患者だ、姉もそこにいた、と義弟は言った。


ここが店だ、と弟が指し示した場所は、松林を抜けたところにあった。
ここが店か、と私は呟いたが、息をのむような気持ちもあったせいか、言葉は唇で溶けて消えた。
風にはためきながらも白いテープが、砂上に整然とした枡目を描いている。
四角に仕切られた幾百もの区画の中に、色とりどりの木々や糸や生活の物を巻き付けた十字架が、ぞっと飛び退きたくなるような、懐古感に辟易するような玩具の鮮やかさで、打ち震えている。
妻が晩年創り続けた作品、「墓標」の立ち並ぶ店なのだった。


義弟は何か小型の長い板きれを一つ一つの墓標に立てかけていった。そこにはそれぞれびっしりと文字が書き込まれていた。
私は一つを自分のほうに裏返してみた。藁人形のような藁製の十字に、銀の簪を串にして白光のような色彩の七夕飾りが絡み付く墓標の一つだった。
「憂ひの七夕祭り、妻は織姫、夫は彦星。願えども、願えども、今年もまた出会うことなく、ただ妻の祈りのみ、紙とともに海に散る」
遠くで私の仕草を見ていた義弟が、高らかにその木板の文句を暗唱した。


底の抜けた化粧水の瓶にべたついた白い粉を詰め、木片の十字を貫通させたものに、書きなぐった簡単な顔の落書きが貼付けてある墓標。
「死の真際にもその手を止めずにいた、虚しきおしろいはたき。死化粧のための、香り良き水。ひとはなぜ、顔を持つのであろう。顔とは誰かと対面をする為だけに作られし、虚栄の碁盤に過ぎない」
夕立の真際の重い空気の中で、義弟の声だけが雷鳴のように砂浜に響き渡る。


先ほど標識のようだと思っていた人影がいつの間にか、一つ、二つと駒をこちらに進めるように近づいてきている。
歩いているところは見かけないのに、ふと気付くと私の視野の死角の中で人影は一人二人と数を増している。夕立の雨粒のしみが地面に増えていくさまにも似ていた。
義弟の叩き売りとも説法ともつかぬ唱い文句に、生気のない人影たちは興味を示したのか、思い思いに好きな墓標の間をすすすと移動して物色をしている。
「時をやり過ごし、浜昼顔を毟れば、永遠はその先にあり」
「かつて夫に送られし耳飾りも、いまは死出の出で立ちを飾る、瓔珞となる」
囁き声のように木板の唱い文句を読み上げる声が、すぐ耳元で重なる。誰一人私の傍にはいないのに、誰もが私に向かって囁きかけている。


いたたまれなくなった私は、犬が自分の尾を追いかけて回るように砂上をしばらく旋回した。
なにもかも砂の底に押しやってしまいたいのに、妻の表情さえ朧で思い出せはしないのに、しゃらしゃらと風に揺れる彼女の服の切端、私が送った装飾品の壊れた断片、何度も描きあぐねてずたずたになった手紙の書き反古、そんなごみのようなものの手触りが、ゴーレムのようにひとの形になり、何度でも砂の底から起き上がってくる。
それは妻の顔をしてはいないし、なんの追憶も感じさせはしない。ただかさこそとした虫が箱に閉じ込められてあがいて蠢くような、感情のない存在感として迫り来て、私のなかから消えてくれない。
雨が降り出して、何か状況が破れた。
私は幕を引くように墓標の店の合間を走り、片っ端からその墓標を抜き集めた。


いくつかの墓標を携えて、私は今、汽車の中にいる。
来たときと同じ風景のなかを。帰路を逆行しているわけではなく、同じ方向のような気もするし、最初からどこへも目指してなどおらず、義弟もいなかったのだと思えてくる。
あの人物は何だったか。一つの墓標に貼付けてあった紙の落書きの顔のように、簡易な顔をしていた。私がいままであの海で話をしていたのは、落書きのあの顔だったかもしれない。
墓標は一つ一つの手触りを持って私の手の中にある。
私はそれを撫でながら、子守唄のように語りかけた。
どうかばらばらに離れず永遠にこの十字架にまとわりついていてくれ。
いや君たちがまた凝集され一つのひとの形になって、蠢きまわること、それだけは勘弁してくれ。