17. 白い線




丘の上から海に向かって放たれる、白い線の流れがある。
ひとりの男が船出の白い紙テープを、幾条も海に向かって投げているのだ。
くるくると巻いたテープの渦巻が解け、放物線を描きながら海に落ちていく。


「船出だよ」
「さあ行け」
「船を出すんだ」
男はもう何時間も、いや何年も、海が一番よく見晴らせる断崖の上で短いつぶやきを繰り返していた。
ごくたまに町の人が、憐憫まじりに声を掛けると、
「俺が送るんだ。俺が送るから、あいつは行くんだ。あいつ独りで、勝手に行くんではない」
と、少し長く呟いた。
男は、海から帰ってこない息子にむかって、毎日船出の儀式をしているのだった。
どんなに海が青く晴れ渡っていても、男に見えているのは、息子が死んだ日の、重い海原と鈍い曇天だ。



  ◆



ひとりの女が、断崖の真下の浜辺に落ちる白いテープの滓を、毎朝片付ける。
来る日も来る日も、それらを拾い集めるのだった。
はじめこそ町の人々が男の狂気をなじる言葉も、女に対しては同情として向けられた。
けれども今ではそれは、見てはいけない禁忌に口を閉ざすような、あわれみに変わっていた。
女は女で、あれは狂ってしまっているのだ。人々は囁きあった。


実の妻ではない彼女の手からもぎ取られるように、小さな息子が丘向こうの男の家に引き取られていった日。
生き甲斐を奪われたそのときから、女は悲しみすら不思議と感じないようになっていた。
はじめの別れの苦悩が心の中で捩じ切れてしまってからは、全てを夢の中のことのように押しやりながら生きた。
息子が死んだと聞かされた日。
女はかえって、息子の身が自由になり翼を広げて自分に頻繁に会いに来てくれるような心持ちにさえなった。


「今日はテープ片付けたのかい」
「うん、今日は朝一回行ってきた」
「ご苦労なこって」
「店の掃除と同じよ、日課」
心細げな小料理屋の中年女でも、そのなよやかな佇まいを特別な憐憫を持って見守る男客達はいる。
それでも女の眼は、朝も夜も、丘の上にだけ向いていた。


海を飽かず眺めたところで息子の魂は帰らない。そんなことは、女は百も承知だ。
だからはじめから海に呟きかけたりはせず、小さかった頃の息子の写真に涙を流すこともしない。
けれど、崖の上に、来る日も来る日も描かれる白いテープの放物線を、毎日見届けずにはいられない。


全てを奪われた女の運命に報いるように、男には狂気が訪れた。
彼らの半生の証しが、空中を流れる白いテープに集約されている。
女の執着は、もはや愛憎からくるものではなかった。
むしろ女にとって、唯一の美しい清々しいものが、丘の白い放物線なのだった。
青年になった息子、かつては壮健だった男、若く美しかった女自身が、有り得なかった人生を自由に延展させている。
白いテープに乗せて。
女が執着する唯一のものは、因果をつきぬけたところにある、三人にしかわからない光と影だった。



  ◆



女にはあたらしい漁師の恋人ができた。
かつての男と息子との、ちょうど狭間くらいの年齢の漁師を、弟のように女は可愛がった。
同じように海に生きる生業だった男や息子の影を、その漁師に重ね合わせたのかもしれない。
仲が良かったけれども、恋人は、いつも女がどこか上の空でいるように思えてならなかった。


朝になると浜辺で白いテープを拾い集めては家に持ち帰り、捨てもせずに四畳半の片隅に積み上げておくふるまいを、恋人は厳しく諌めた。
「俺はあんたの新しい人生のことを一緒に考えていきたいんだ。悲しみが簡単に消えないのはわかる。でも、もうそんな惨めな記憶の滓を拾い集めるのだけは、やめてくれ」
恋人は女に懇々と言い聞かせた。
女も一度は熱意にほだされ、しばらく浜辺に近づかないようにしていた。
けれど夏が近づき、空が残酷なほどに青く青く晴れ渡ると、彼女はそこにどうしても白い放物線を重ねてみたくなった。
彼女の人生でそれだけが、心底から晴れやかな思いのする瞬間だったからだ。
幾月か過ぎると女はまたいそいそと浜に出かけ、男が白いテープを空に放るのを見届けて、落ちたその残骸を回収してくるのだった。


ある夜明け。
恋人の漁師は彼女の家に上がり込むや否や、四畳半の隅に堆積した白いテープの束を、脇に抱えて乱暴に丸め込んだかと思うと、すぐに漁に出て行った。
女は、夢うつつで恋人が家に入って出て行く音を聞いていた。
が、いよいよ目が醒めてくると、となりの四畳半がもぬけの殻になっていることに気付き、茫然とした。
「あのひとは、あれを捨ててしまうのだ」
そう考えた途端、彼女は何だか、自分の魂のかぼそい鬼火までを、丸めて海に捨てられるような脱力感を感じた。


朝靄の薄赤い光の中、自分のいつもの漁場とは違う方向に船を走らせ、恋人の漁師は海にそれを投棄した。
見るのもいやなものによって自分の好きな海を汚すのは、尚更いやだった。
けれども、白いテープに乗り移った離ればなれのあの親子の情念は、その海に葬り去らない限り、消えない気がしたのだ。



  ◆



狂気の男は、その朝、もはや崖の上でテープを投げることはなかった。
蒲団の中で息を引き取っているのを、家族が見つけたのである。
ぬけがらのように浜辺を彷徨っても白いテープの残骸を見つけられなくなった女は、数日後町の人の噂で、男の死を知った。
自分の魂が海に投棄されたのと同じ日に、男の念もこの世から消えたことは、不思議な因縁なのだ、と思った。


青い青い真昼、女は割烹着のままふらりと崖を目指した。
知り合いや恋人がその姿を目撃していたら、すぐに止めるであろう。
今にも崖から身を投げてもおかしくないほど、軽くほつれたような、頼りない足取りをしていた。
実際に、彼女は心のどこかでもうそんな気分にもなっていた。


崖の上に立ち、女は、眼下の海面を見渡した。
息子が海で死んだと聞いてから、女はこうやって海の表面を眺めることはなかった。
くらくら、自分の足場が心もとない、と感じ始めたとき。
不意に彼女は、空にとても見慣れた、気持ちのいいものの存在を認めた。
青に緩やかに引かれた白い線。
死んだあの男が、今日も天からゆらゆらと白いテープをたなびかせているのか。


けれど、目を凝らして、女はもっと驚いた。
上の空に生きて来た女が、そんな風に美しい気持ちで晴れやかに驚くことなど、滅多にないことだった。
白い線の正体は、海を渡ってくる白い蝶の、一直線の群れだった。


そのとき初めて女は、この空のどこかにいるか知れない息子が、常に男や自分の思いを見つめ返していたのだ、と気付いたような気がした。
蝶はまっしぐらにこの岬を目指して来る。
女が海原に引きずられていきそうな引力を押し戻すかのように、白い美しい線を描いて向かって来る。
生き甲斐など何もわからないし、もうこの世にはないのかも知れないのだけれど、今はこの白い線が目指す方向に私は行く、と女は思い、渇いた田舎道を家に戻った。