16. 小骨取り




暗くならぬうちに山道を戻ってくること、沢にむやみに降りていかないこと。
通り一遍の注意を女将に言い聞かされて、少年は温泉ホテルを出た。あなたは義妹からの大事な預かりものなんだから、と最後に念を押された。
軋む音を立てる玄関前の玉砂利はいまいましい。でも、そこを過ぎて山道に入ってしまえば、あの柔らかい若葉の空気が待っている。


少年はここにきてはじめて、いろいろな柔らかいものを知り始めた。
風が渡るたび白い手を振りかえしてくるような無数の裏葉の色。木の幹を剥いたときの肉体のような薄黄。踵から足の爪先まで満遍なく使って踏みしめる春の土。
道というものは、ただ家や学校の前に真直ぐ伸びているものではなく、斜面にあわせて折り畳むようになっているのだ。
すぐそこに手を伸ばせる木の枝の下を眼でたどっていくと、自分の足下遥か底までその存在が続いていたりもするのだ。
そんな小さな発見をするたびに、少年自身のからだも自在に伸び縮みするような気がした。


育った町にいて、硬いものは、道路や建物だけではなかった。
忙しすぎる父母にも、神経質で疳症な幼い弟にも、学校の机にも、自分の生身のからだが柔らかい受け答えをするようなものを感じたことがなかった。
五月の休み、少年はこの温泉地に、行楽で連れて来てもらったのではない。
そういう硬いものたち、とくに病弱な弟の世話で神経が尖りきっている母親に弾き飛ばされるようにして、伯父の持つ温泉ホテルに預けられた。たったひとりで。


忙しく立ち働く女将や仲居達には、はじめはよそよそしさを感じた。
けれど、彼女達の着物の腰あたりを観察していると、しだいにそこだけ独立した生き物が不思議に蠢いているような可笑しさを感じた。階段の上り下りに上気している首の辺りの肌色も、初めて見るものだった。
少年は子供ながら、ほんとうはこういうものが女なのではないか、と漠然と感じるくらいの感覚はあった。
仲居達の立居振舞いのふくよかさに比べると、落ち着きなく子供を振り回すだけの母の骨張った感じは、枯れて水気のない枝のようだと思った。


少年は昨日、断崖からひらけた沢の眺めを見下ろせる、新しい道を見つけていた。
幾度か立ち止まりながらも、うろ覚えの道を進んでいった。
二、三度違う道を通ったようだけれども、昨日の断崖に無事辿り着いた。
大小の石が散らばる沢の一番川幅が広がる場所には河原で誰か炊飯をしたあともあった。そこだけが真昼の太陽を受けていて、銀色に乱反射している。不思議な真昼の明るさと静けさが心地よかった。
こんなに汗をかいたこともなかったし、それが風に冷めていくときの、太陽の匂いと体臭が混じりあったような上気も、少年を不思議と落ち着かせた。


川の流れて行く方向に、木立に隠れた建物がある。
彼にはそれが旅館なのか別荘なのかも見当がつかなかった。
最上階の美しい古風な作りの木造建築が山道側の出入口になっているが、セメントの地下一階と地下二階は川に面した大窓があるらしいのが、上から辛うじてのぞけた。
川に面したほうの最上部には、木を敷き詰めた四畳ほどの広さの露台があって、きのうはそこで人々が何か魚を焼く煙を出しながら談笑している様子が見えた。
葉の陰で全ては見えなかったのだが、木漏れ日の中に動く人影は、むかしの親戚の写真を見ているような、時代離れした綺麗さがあった。


綺麗だと思ったのは、ひときわ美しい女の人が手摺の一番近くに座っているのが見えたからだ。
白金色の着物を着て貝の口のように髪の結い目が整っている。顔の造作のことはわからなくても、とにかく光り輝く何かを見たような気が彼にはした。
少年はその女の人に、はじめてここに連れられて来た時に伯父が沢で見せてくれた、銀色の川魚を連想した。
幾重にも纏いつく光、小さいのにみっちり詰まった肉感。
ひとに対して「美味しそう」だと思う自分が変だ、と思いながらも、若葉の陰から女の人に見惚れていた。
賑やかな一群れとともに女の人がいなくなってしまったので、きのうはそれで、そこをあとにした。
今日もその人が見たいのかどうか、はっきりと考えたわけでもないのだが、とにかくきらきらした水面や木漏れ日に見惚れていたかった。


同じ場所に立って、同じ方を眺めてみて、あ、とおもわず少年は声を上げてしまった。
今日も女の人が居る、と思ったから、だけではない。
自分からちょうど見えづらい肩の側から向こうを向いてきのうの女は座っているが、その正面には男が座っている。
どちらも椅子に座っているが、やけに距離が近い。
いけない場面を見ているのかもしれない、と少年は身構えた。


目を凝らすと、男の顔は真面目腐っていて、まるで医者が診察をしているようだ。
女は神妙に治療を受けているようにも見える。
病院の診察室なのか。あんなベランダのようなところで。
女はどうやら着物の前をはだけているようなのだが、ちょうど前の部分はこちらから見えない。彼は女の胸を見てみたくてしょうがなく、身を乗り出した。


息を殺して観察していると、男は何か箸のようなもので、女の胸の辺りから何かを取り除く仕草を繰り返している。
慎重に、静かに、細いものを箸でつまんでは、おそらく床にあるであろう容器か何かにそれを入れていく。
何をしているんだ……おとなのように眉をひそめて想像を巡らしてみたが、わからない。
男の仕草に今度は医者というよりも、別のものを思い出した。夕食の膳で伯父が丁寧に白身の川魚の小骨を取ってくれた手つきである。
意外なことに、男は何回かそれを繰り返すとふと立って行ってしまった。そしてまた次の別の男がその椅子に座って同じことをし始めたのである。その次にも、別の男が順番を代わった。自前の大きな毛抜き鋏のような道具を持っているものもいた。
女はその間ほとんど身動きをしなかったが、時々腰を浮かせて座り直したり、ずり落ちそうになる衿を少し直したりしているので、別に死んでいるというわけでもない。むしろ後姿からでも、何かうっとりと相手に身を任せている様子がうかがえた。


少年はたまらず、木々の間を、恐る恐るその建物に近づいていった。思ったよりも、そこに近づくのには距離があった。
見慣れない道の脇に建物の表玄関があった。小ぶりの木造建築の表の硝子戸まで、露台からの外光が真直ぐに透過して眩しい。
廊下には深赤の絨毯が敷き詰めてあり、青いスリッパが並んでいる。が、人の気配を感じない。
広く開け放された暗い畳の間の向こうの外の露台に、女と、数人行列して順番を待っている男が、逆光になって見える。
少年は音を立てないように、そっと建物に入り込んだ。入口は古い硝子戸だけれども、蝋が塗ってあるのか軋むこともなかった。
旅館なのか料亭なのかはわからないが、調味料や油がしみ込んだような匂いがしている。
暗い畳の間を膝で這って、少年は露台に近づいた。
磨き抜かれた木の廊下を一本隔てて縁台はある。男達はおとなしく箱椅子に座って少年には背を向けている。


女の前姿を見るために最大限に身体を伸ばした少年は、また声を上げそうになった。
はだけている胸元には白い肌も乳もなくて、魚のように皮を開かれた白い肉と骨が露わになっているのだ。
口を開けて茫然としたけれども、少年は妙に納得をしもした。
そうか、ああやって小骨を取るのだとおじさんも言っていた。
それをあの人は身体で教えているのだな、と変なことを合点した。


男達は番が終わると、粛々と部屋の外の廊下を曲がって帰っていく。少年とは顔を鉢合わせることはなかった。
少年は、小骨取りならば自分もやらせてくれるかしら、とごくりと唾を飲み込んで、男達の列が途切れるのを静かに待った。
白身魚の女は身を崩すこともなく、男達が去ると、すっと椅子から立って着物の前を合わせた。
少年は自分でも驚くくらい素早く傍に寄っていって、黙って女の傍に立った。
小柄で肌がつるつるした綺麗な顔の女は、目を丸くしてしばらく少年を見つめ返していた。少年はなんと言い出していいかわからずただ突っ立っていた。


やがて女は呆れて笑うように、
「骨が取りたいの?」
と問いかけて来た。少年は一生懸命頷いてみせた。
笑い声とともに女がまた椅子に座り、ひらひらと白いような金のような銀のような鮮やかさで着物の胸を開く一連の動作をしたが、少年はまともに見ることが出来なかった。
「そこにお箸があるでしょ。それで、骨をつまんでね、つぼの中に入れるのよ」
お姉さんらしい声だ、と少年は甘い眩暈がした。
自分には姉はいないし、そんなものは想像でしかなかったのだけれども、母親にも学校の先生にも感じることのなかった女らしさを目の前にして、陶酔と幸福でいっぱいになった。


少年は息を止めてひとつ骨をつまもうとしたが、
「息は止めなくていいのよ」
と笑われたので、すこし緊張が解けた。
しばらく静かにその動作を繰り返すと、厳粛な時間の中にいるように思えた。
ふと顔を盗み見たとき、目を閉じて口を半開きにした女が、これまで誰もしなかったような幸福そうな表情をしていたので、少年は吃驚して、白い身のほうをつまんでしまった。
「だめよ、お肉はとっちゃだめ」
と諌められた。
「じゃあ、一番綺麗な骨の取り方を教えてあげる。ここに太い背骨が見えるわね、それを一気に剥がすのよ」
白いような透明のような肉のなかに、幾筋にも線対称に並んだ精緻な魚の骨が剥き出しになっている。
少年は伯父がやってみせてくれた美しい骨の取り方を思い出した。
片手で尻尾のところをほんの少し押さえつつ、箸で背骨ごと剥がしていくと、崩れることなく魚の身だけが残った。
女が心を読むように、
「それと同じよ、あんたの足でこの足をちょっと踏んで抑えて、この首の骨の一番太い部分を持って一気に剥がして」


少年は言われた通りに女の身から美しい魚の骨を剥がしていった。女の柔らかい満ち足りた肉はふわふわと縁台の板敷きの上に崩れ落ちた。女が言葉を発することはもうなかった。
初めて怖くなって骨を投げ出し、あとを振り返りもせずに、少年は逃げ去った。


それから少年は二日、高熱を出してうなされた。
伯父の温泉ホテルの一室の蒲団で目が覚めると、廊下のほうで聞き慣れた母親の刺々しい声がした。
下の子供がただでさえ病気なのに上の子供まで熱を出して手を焼いている、こういうことがないためにここに預けたのに、とまくしたてていた。
少年は枯れ木のように渇いたものを思い出した。


これなら淡白だから病み上がりでも食べれるだろう、と、その夜伯父が川魚を焼いてくれた。
少年がとても綺麗に骨と身を選り分けたので、母親は吃驚していた。
少年はその白身魚の上で涙を流し始めて、最後の一口を飲み込むまで、ずっと泣いていた。