15. サイリウム




彼女は、数年前に移動して来たこの環境が気に入っている。

敢えて無機質にしつらえた邸宅街、プラチナのように滑らかに輝く白芝。室内の大スクリーンの中で飼う映像の猫。人工的に発生させた涼やかな霧。

余計な声、余計な大気の温み、余計な色彩は一切ない。


完璧に独立心のある、落ち着いた物腰の、特別に素養に優れた女性だけが働く職場。そこからの帰路は、今までいたあの世界のようなハイヒールの甲高い音を立てることも、またはわざとスニーカーを引きずって歩くこともない。身体を虐めない、地面も虐めない、女達がみずからの世界と身体の為によく設計した靴を履いて、好きな時に好きなように出勤する。

以前いた世界で男達の作った「線的な時間」は、消えた。女達は自由に、今、ここ、私、を「点の移動」のように生きている。


理不尽なハラスメントを浴びせる男の上司もいなければ、望みもしない他人との肌の接触もない。結婚に焦燥を感じる女達のおぞましい意地の張り合いもない。

欲望が生まれない世界には、満足不満足の偏りを生み出すような機構はほとんどない。宗教もなければ、戦争もない。誰とも暑苦しい皮膚の接触はなく、しがらみがなくて、清潔で、気持ちがよい。




白砂の擂鉢式遊園の向こう、人工の池のほとりで子供らが遊んでいる。

子供たちは、この居住区域の中でも一番美しい施設の透明な合同人工授精機で、計画的に生産されていく。生まれてくる性別は女が七割、男が三割となるようにコントロールされている。

彼らは女達の単なる母性愛の対象ではない。女達は子供を抱きしめたりなどしないのだった。

次世代を繋ぐ継承者であり、小さな大人のように独立した存在として尊重される。幼稚園などという子供じみた言葉はもうない。そしてあらゆる危険な例外を避けるため、子供の教育には殆ど女達が従事する。


「動く植物」のような姿をした男の園丁達が、静かに居住地域を管理している。保護色の衣服、風景を壊すことのないような所作、細く中性的な最小限に抑えられた声。

建築家も、詩人も、測量技師も、女達に必要とされる男達はみな、女達の風景を乱すことのないような振舞いを守ったまま女達にしずかに雇われている。




彼女は二十五歳。

まだ若かったが、既に「結婚」という二文字の単語は、古語のような響きでしかない。そもそもそれを台詞にのせて響かせる人間は、ここにはいない。

愛とか真実とか美というものは、女達の最高唯一の尊厳である「知」の中で守られる観念の種類だった。それは体験される事象でははなく、モラルの構造や品性の気韻を言語化する訓練のために語られた。


邸宅のなかにはコンクリートの施設がある。それは複数の男たちが囚人になって収容されている、彼女の持物としての「監獄」なのだった。

女達は、大なり小なり似たような施設を所有する。男達を完全な品行方正の状態に調教すること、それがこの世界の人間のステイタスでもあった。

囚人らはみな彼女に歴史や哲学を教養として教えていた男性の雇われ教師、あるいは料理人、園丁などだった。


彼女はこの世界ではまだ比較的若く美しかった。

彼女との淡い交渉の中で、彼女に対して若干行き過ぎた思慕を持ち、それを口にしてしまった男達を、彼女はこの監獄に一時隔離した。

なにも手荒なことをしたわけでもない。ただ、年の割に厳格で意識の高い彼女の前で、彼らは切々たる顔で自分の存在を目立たせようとしたり、親身にしすぎたり、熱く思想を語りすぎたりしたのだ。それは彼女の、やや完璧主義的な誇りを傷つけもした。

彼女は自分の身の回りで貢献してくれる男達に、しっかりと充分に、深い愛情を注いでいるつもりだ。だからこそ、彼らの心が不安定になると監獄に収容し、質のいい生活意欲との折り合いをつけさせるための、品行方正な濁りのない、欲に塗れないための生活指導を、こんどは彼女自らが行った。


この監獄は実は、彼女や男達のもとの邸宅よりも、ずっと居心地がよく設計されていた。囚人達が、以前よりももっと自身の尊厳を自覚し、心の平明さを身につけるための環境である。

ガラス張りの大きな窓、部屋の半分を占める意味ありげな次世代美術のオブジェ、そしてコレクションされたありとあらゆる学問の本やデータベース。

ライブラリーでさまざまなことを検索する日々の中で、恋愛感情や欲望は今まで以上にゼロに近くなる。監獄につきもののフラストレーションも無い。


知的で紳士的な男囚達は同じ大部屋に住み、大スクリーンで映像を見たりディスカッションをしたり、好きに過ごしている。彼女が加わることもある。性別の差もなく、みな知的に振る舞った。
彼らが出所する時や入所する時には、華やかな、それでいて家族的なパーティが用意された。いわばこの世界のしずかな社交界に男達を送り出すための、訓練所のようなものでもあるのだ。


その中にも実は、数部屋だけ独房がある。それは、うまくしつけを出来なかった男達の房である。
廊下を通るたび、いまだに哀しげな視線を送られたり、意地の悪い気分の起こった彼女がまだ拘泥して一食抜いたり、言葉をかけてやるのをPC上のみで制限するような、ささくれ立った関係の囚人達が住むのだ。


「6号」はその中でも最も気難しい部類に入った。
彼は十七歳で、中央機構から預けられた少年だった。つい最近までは細面の少女のようなやさしい物腰だった彼も、教育係の彼女と一年間一緒に住むうちに、まるで前時代のあの世界の青少年に見受けられるような、暗い目と反抗期の様相を示し始めた。


彼は別にものを破壊したり、汚い言葉を浴びせるのではなかった。彼女にほんの少しだけ微笑んで頷くことさえあった。
けれど彼は声を出さず、言葉で応答しなかった。
失語症になっているのかもしれない。そんな精神の不安定を来すこと自体が、彼女の教育基準では、哀しき罪にあたるのだった。まだ若い少年に、大人になる為のモラルやバランスのとれた知力、会話力を身につけさせなければいけない。その思いが彼女自身を実は焦燥に駆り立てた。


半年前彼はふいに、筆談で彼女に「本が読みたい」と語りかけて来た。
彼女はありとあらゆる学問の本を6号の部屋に運ばせた。聡明な6号は、瞬く間に難解な文献や、長編小説、哲学書を読み進めていった。
そうこうしていればきっと大人になってくれる、と思う彼女の願いに反して、6号は日に日に食事にも出席しなくなり、彼女の声にも全く応答しなくなり、青い絨毯の独房で日がな一日寝転がったり座ったりして、本を読み耽るだけになった。


「ねえあなた、人と人との会話って、大事なのよ。もちろん本の中にも沢山の人間の真理が、詰まっているわ。でもこの本はこれからのよりよい未来の、資料なのよ。それを応用する為の、コミュニケーション能力を身につけなければ、片手落ちだわ」
彼の気持ちを逆なでしないように優しい声で、自ら何度も独房に出向き、直接声をかけてやるのだった。が、何も見えず、何も感じていないように少年は本を読み続けていた。


磨かれた大硝子の窓の外は、墨色の竹林。冬の晴天をひんやり新たに撫でるような風が、廊下にも入り込む。
冬のある日、6号は独房のブザーを押して彼女を呼び出した。
彼女が独房に行って見ると、積まれた本はきれいに横に片付けてあり、セーター姿の少年が部屋の中央にすっと立っていた。例のごとく、彼はノートの切れ端に文字を書き付けて来た。
〝ケミカルライトを買って来て サイリウムともいう 
部屋を明るくしたい モールで売っていると思う〟


「教育係である私に指図するの? 仮にもここでは私はあなたの看守よ。お姉さんじゃないのよ」
彼女は少し声を曇らせながらも、努めて笑顔で穏やかに彼を諌めた。
6号は全く色のない澄んだ瞳でじっと彼女を見返すだけだった。
この眼が怖い、彼女は思った。
他の男の感情のよく表れる眼はいつしか制御出来る。しかしこの、感情の何たるかを知らないまま人に反抗することのみを反応で覚えた昆虫のような存在感を、彼女はどうしてよいかわからなかった。


「いいわ。でも子供みたいな遊びはたいがいにしてね。どのくらい必要なの? 一本でいいの」
出来るだけ沢山、と彼は書いてよこした。
彼女はあきれ果てながらも、ここにこうして彼を詰め込んで閉じ込めているのは自分の責任でもあるのだ、と後ろめたい思いもしながら、独房を離れた。


ショッピングモールの一番光の白い照明具の売場に、長くくねくねと曲がるチューブのようなサイリウムが売っている。エクステリアのイルミネーションショーアップに飽き果てた女達がインテリアを飾る為の、ねじ曲げられる白色光の発光棒だ。
私はこんなもので家を飾ったりはしないけれど。彼女はそう思いながら、数十本ものサイリウムのセットを購入して、6号に与えた。
独房を訪れたとき、彼は本を顔にかぶせて眠りこけていた。彼女はそっとビニールを部屋の隅に置いた。なぜこのように少年を甘やかしてしまうのか、と自分を少し責めながら。


ある日曜日の雨の夕暮れ、彼女が監獄を見回っているとき、ふと独房の明かり取りの窓がやけに眩しいことに気付いた。
それは6号の部屋の扉から漏れてくるのだった。
彼女が覗き込むと、部屋の中は異様な白い光に満ちており、彼女は一瞬それがどういう状態だかわからなかった。


それは、様々な形にねじ曲げられたサイリウムの海なのだった。
少年は嬉々としてその光の中で、ねじ曲げたサイリウムを青い絨毯の上に寝かせたり、立たせてみたりしている。
何をやっているの、と呆れながら部屋に入ると、更に目がくらむような気がした。黙って少年は、彼女を向き直りながら光の中に立った。
彼女は、サイリウムの散らばる部屋を眺め回しながら気付いた。それは一つ一つ文字の連なりに加工されているのだった。まるで針金のようにねじ曲げたり切ったりしながら、彼は何かの文章をその光で作っていたのだ。
彼女は低い声でそれを一つ一つ、戦慄を感じながら、呟いて読み上げていった。6号は素知らぬ顔でポケットに手を突っ込みながらそれを眺めている。


「だれかと……わたしが……またひと……つに………なるあさに」
「おさえきれぬこの………うずきが」
「そう……いいながら………ふくらみ……にてをのばし」
「つきささりつきぬける………ことの…」


彼女はかつてないほどの破廉恥な恥辱を与えられたような動揺で足が震えて来た。そして、部屋の隅の最後の文字を視線で結び終えた。
彼女はもうそれを読み上げもせず、肩を震わせていた。
〝やっとてにいれたこのぬめりのあるきかんでわたしはひとでなしのこいをする〟


それは少年が作った詩句なのか、それとも彼がどこからか選び出して見つけた恋愛詩の詩句なのかは、わからなかった。それはどちらでもいい。彼女は、初めてと言っていいくらいの怒声で彼に向かって怒鳴った。
「私を愚弄しているの?! なぜあなたは何も喋らないの? どんなに私があなたに時間をかけ教育しているかわからないの」
色のない目で見つめ返されると、彼女の声はもっと荒くなった。それは感情の爆発だった。
「喋りなさい! 私とちゃんと話して! 答えなくていいわ、話をしてよ!」


するとふと少年が何かの糸が切れたような穏やかな顔になった。
白い頬が緩み、唇の稜線が少しずつ解けるかと思った瞬間に滑らかな彼の声がほとばしった。
「やっと言っていることが聞こえた」
彼女は唖然として、声を普通に発した少年を見つめていた。
彼の声を、この上もなく美しい響きだと何故か感じた。
「本気で怒ってくれたからか、言いたいことを言ってくれたからか」
「喋れるの」
「聞こえたから答えたんだ」


二週間後、彼女はその邸宅を引き払うことにした。