14. 春爛園




しゅんらんえん、に入れてしまうぞ。

子供がどうしても聞き分けずいよいよというときに、声をひそめてそう脅すのが、この土地の親のならいだった。

村のはずれから続くだらだらしたのぼり坂が、陽炎に燃え上がる。その奥深くから、苦しいほど甘い花の香りが漂ってくる。山には、ありとあらゆる木や草の花が自然に生えていたのだけれども、その香しい匂いは、そこからするのではない。


山は、ある成り上がり者夫婦の持ちものだ。
十五年前のことだ。夫婦はそこに、「春爛園」と言う名の人工の花園を開いたのである。よい匂いは、そこからするのだ。
薔薇や菊にはじまって、桜草園、躑躅園、あらゆる色に染められた畑が、山の段差に広がっていた。村の中から遠く見上げる花園の景色は、此の世のものとは思えないほど色とりどりで、不思議な美しさをたたえていた。
が、村の人々はそこにはあまり近づかない。いつからか花園の秘められた噂をみな聞いていたからだった。


村人が行楽に訪れ、桃の木の下でささやかな昼餉を楽しめるのは、花園のほんの入口のことだ。その奥にあるいろいろな花畑を楽しむことが出来るのは、限られた金持ちや、地位のある都会からの客だけなのだ。
成り上がり者夫婦は、都会からも田舎からも幾人もの娘や少年をさらってきては、その秘められた奥の敷地で、ひそやかな歓楽や、見世物を提供している。そのような噂が、囁かれていた。


噂は嘘ではなかった。
るいこ、字で書けば涙子と名前をつけられて、娘はこの園で暮らしている。春爛園が出来たばかりの頃にさらわれてきたある若い女が、通いの園丁との間に産み落とした子供だった。若い女は、胸を病んで死んでしまったのだった。
女達は、富んで肥えた客達の酒の宴にはべるだけではなく、いろいろなことの相手をさせられる。小さな涙子も、いずれはそうなるのだった。
たくさんの女達が、この園を逃げていこうとする。見張番の目を盗んで、張り巡らされた針の塀を越えてみても、夜の山の谷底に落ちたり、山のぐるりを流れる大きな川の石ころ河原で見つかって、連れ戻されるのだった。


少女の涙子がいずれあのいやなお客のなぐさみものになるとわかったところで、まわりの女はもう同情さえも出来ない。そんなことは、あたりまえなのである。女達は、魂を抜かれきっていた。強すぎる花の香りに、生きる気力を溶かされたのかもしれない。
だいいち、涙子は特別な娘だった。


よく泣く赤ん坊で、四つのとき母親が死んでからは、さらにさみしい涙をはらはらと落とし続けた。泣き虫の涙子だったがはじめはほかの名前で呼ばれていた。
あるとき涙子は、悪鬼のような園長の妻に、ささいなことで仕置きを受けていた。そうして、白菊の花畑で泣きじゃくっていた。その時だった。園長の妻が、涙子の生まれつきの秘密を、偶然にも見つけてしまったのである。
彼女の落とした涙で、白い菊の花が、青く変わるのだった。涙の雫のそのままに、青い斑点がはなびらに残った。
このめずらしい子は、見世物にふさわしい。園長の妻はすぐに、ちいさな涙子を、まるで曲芸団のけもののように扱い始めたのだった。涙子と言う名は、そのときにつけられた。


いやがる涙子を後ろ手に縛り、園長夫婦は、ありとあらゆる折檻をした。転がった畳の上に、敷き詰められた白い花々。白い花は、泣き叫ぶ涙子の涙で、見る見るうちに色を変えた。
座った涙子がちょうど入る大きさの、片側の開いた箱が作られた。逃げないように、そして頭を揺り動かさないように、丸い首穴の開いた板で、首かせをされた。涙子はとうとう、この花園のひとつの見世物になったのだ。もちろん、普通の人にはお目にかけない、特別な趣味を持つ客の見世物に。


いやらしい顔つきをした紳士や、身なりは美しくともおそろしい冷たさを持った婦人が、あらゆる罵声をあびせ、涙子の手の甲をつねったり唾を吐いたりしては、泣かせた。土産物といって客に持たされる白い花は、そんな涙子の涙で、手品のように色づいていく。
客はその趣向に、興奮したり喜んだり、時には髪の毛を引きつかんでまで、涙子を泣かせようとした。
さすがの涙子も、たび重なるひどい折檻に、もう心も折れて、涙を流すことをしなくなっていた。首かせの上にがっくり首をうなだれて、死ぬ前に見せしめにされた罪人のように、力なく座っていた。


ある日常連のお客が、それは涙子の最も嫌いな息のくさい老人だったのだけれども、涙子の顔を上げさせて、これでもかと少女の目玉に口を付けて舐め始めた。日頃はぼんやりとうなだれている涙子も、あまりのおぞましさに、火のついたような怒りを覚え、涙を吹き出しながら、老人のあごの下に噛み付いた。
老人は痛さにとびのいて、涙子をしたたかに打ったけれども、老人の興味は、いま舐めた涙子の涙がえも言われぬ甘い味だった、ということに向いていた。
「泣かない、泣かないと思ってつまらなかったが、これはおどろいた。この娘の涙の、美味なこと。涙は塩辛いとばかり思っていたのに」


それからというもの、たまに来る男のお客は、必ず涙子の目玉を、むりやりに舐めるようになった。どんなに強くまぶたをつぶってみても、必ずこじ開けられた。涙子の気分によって、泣きたいときには甘い花の蜜のような味に、泣く気も失せたときには甘酸っぱい味に変わるのだ。それを紳士達は、物好き顔で評しあった。ただのお金持ちだけではない。教養のある紳士も、文学者も著名な芸術家も、まるでそれが芸術をたしなむ特権であるかのように、したり顔で、この娘を評しあった。


涙子の箱の横の花いけに、みやげの白い花を摘んでは運んでくる、太郎という少年がいた。
幼い頃、すこしきれいな顔をしているからと連れてこられて、育つにつれ、何の興味も大人からひかれぬようになって、いまは白い花畑の世話と、雑用に使われていた。
よく働くけれども、無口で無愛想なので、誰からも愛されず、よく園丁達に殴られた。


太郎がこんな花園を逃げ出さずにいたのは、涙子の世話を任されていたからだった。
生ける屍のようになった少女の顔を、濡れた手ぬぐいで丁寧に拭き、髪をすいてやるのが太郎の役目だった。
何か声をかけたいけれども、かけては見世物番に殴られるので、太郎は黙々と心を込めて、少女のまぶたのまわりを布で湿らせて拭った。死んだような涙子の顔も、そのときだけは安らかな眠り顔のようになって、時にはそのまま、気を失うように眠ってしまうのだった。
もう舌を噛み切る気力もなく、口輪も外されていた。けれども、口を噛み締めて餌を食べたがらない涙子のために、餌番や下の番は、もっと意地の悪い見世物番が無理なやり方で行った。その役を自分にさせて欲しい、と頼んだ時には、太郎は立てなくなるほど折檻された。


ある日、彼女の髪をすいてやっていた太郎は、箱や首かせの板の、つなぎのねじ釘が外れかかっているのに気付いた。園丁が作った雑な作りの箱なので、外側はしっかりしていても、所々に造作の甘いところがあった。涙子が暴れるような時に、それらのねじ釘は少しずつずれて、緩み始めていたのである。
ものを言わない太郎が、顔を拭く以外に、そっと首かせの位置を動かすような素振りをするので、涙子はまじまじと太郎の顔を見た。太郎は、涙子の目を見ようとはしなかった。そのうち涙子は、なぜこの太郎が首かせにそっと触ってずらすようなことをするのか、わかってきた。太郎は毎日、少しずつ同じようにそれを繰り返した。
心が涸れきった涙子は、太郎の気持ちを察しても、なんの生きる気力も湧かず、ただ虚空を来る日も来る日も見つめていた。


だが、その日は来た。
見世物番の眠りこける夜の小屋に、太郎は忍んで来た。足音を立てぬようにして、そっと涙子の箱に近づいた。
涙子は何の色もない眼で、だるそうに太郎を見上げた。太郎はそんな涙子の眼を、今度はじっと黙って見つめた。まるで何か信念を持って、言い聞かせるように見た。ひとの眼をそんなにまっすぐに見るということが初めてで、涙子の心に、にわかな変化が生まれた。
太郎は静かに慎重に、釘のすべてを外した。息が詰まるような仕事だった。見世物番が、だらしなく居眠りをする男であることも、日頃よく観察していた。太郎の祈りは、涙子自身がなにか拒絶をして、大声を出さないようにすることのみだった。


首かせの板だけはまったままの涙子が、太郎に抱き上げられた。
それからはもう太郎は、無我夢中で園内を走って逃げ、少年の勘で、塀の守りの薄いところを探し当てて、脱出した。
涙子はもう二年も箱に座ったままだったので、歩けもしないし、羽根のように軽い身体をしていた。
涙子は生まれて初めて、深い夜の、外の空気を吸った。
森の呼吸。聴いたことのない獣の存在の気配。太郎の腕に抱かれていたけれども、はっきりと全身の感覚を使って、初めてのこの世の外側を味わった。


明け方太郎は、森の岩場に涙子を座らせて隠し、一番難所である川の深さを探りに、河原にたどり着いた。
運悪く、そこには朝からたまたま目を覚ましていた番人が、歩き回っていた。まさかそんなところにまで番人が居るとは、太郎も思わなかった。そんな遠くを任されている番人は、気持ちも粗野で、何もかもどうでもよいような仕事ぶりをしていた。ただ獣や魚が捕れるから、狩人のように山をうろついているのだった。
番人は不意に現れた少年に驚き、驚いた自分に何となく腹が立ち、逃げる少年の襟首を掴むと、あっけなく肩から胸にかけ刀で切りつけてしまった。
太郎は河原に倒れた。白い着物が、みるみるうちに血に赤く染まった。
さすがに番人は、自分がかっとなってしたことに恐れをなし、見つかってはいけないと、太郎を物陰に引きずってからそこを離れて逃げた。


涙子は岩陰で、確かに太郎の叫び声を聴いた。
彼女はもう、立って歩けないことも忘れ、何度も崩れ折れながら、時には這ったりしながら、崖を転げ落ちるようにして、河原に辿り着いた。
そこは石ころの寒々した河原ではなかった。赤い花畑のようだった。
河原の石の隙間から、涙子の知らない真赤な花が、無数に菌糸のように天に伸びている。
そして朝日の中、真赤な着物をきっちり着込んだ太郎が、しずかに川の水の中に佇んでいた。
涙子を見つめながら太郎は一言、
「僕はひとりでゆくよ」
と言い、背中を向けて川を歩いていった。


見捨てられた、と涙子は一瞬思ったが、それは違うのだ、とすぐに悟った。
涙子は、傷だらけの体の力を振りしぼって走り、転びながら走り、水の中の太郎を追った。
どうしてそんな力が、少女にあったのか、わからない。追いついて、飛びかかるようにして、太郎を水の中に倒した。
太郎の体は白魚のように、たよりない手ざわりだった。
涙子は、見世物小屋の角から聞こえていた、見世物女の祭文を覚えていた。三途の川を渡る死者の話。これを渡ると、太郎は永遠に向こうの世界へ行ってしまう。
水の中に倒した赤い太郎の、血の身体が、だんだん白く洗われて来た。
水が血を洗ったのではない。涙子が泣いてはらはらと流すその涙が、太郎に掛かって、太郎の血はみるみるうちに白く色を変えていたのだ。


太郎はもうろうとした眼の中で、涙子の泣き顔を見ながら、次第に何かに気付いた。
幻のようだった、自分の身体の感覚が、確かに戻って来ている。水が冷たい。石が痛い。
はっと、肩から胸の切られたところを触ってみると、傷がなかった。
太郎は無我夢中で飛び起きた。
さめざめと泣く涙子をも叩き起こすと、また彼女を抱きあげて、今度はしっかりとした足取りで、川を向こう岸に渡っていった。