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≪前頁より続き≫
ごくふつうに見聞きする身近なところに拆字(D)の例を求めるならば、人の寿を祝するに用いる者があ
る。六十一は還暦(もちろん数え年)であるが、これを華甲というのは、華字を拆すると十が六つと一が一つ、合わせて六十一となることによる。六十一ならば辛寿でもよい筈である。宋の詩人辛棄疾は自ら辛字を拆して「六十一上人」と號している。しかし辛は寿を祝するにふさわしい字であるとはちと言い難い。ただし今は華は簡化字でに作るから、人七十となり、七十の寿ということになろう。
我が邦ではこのことから思いついて、七十七を喜寿とする。これは「喜」の草書が七十七だからである。ただしこれは和様の草書が七十七なのであって、シナ(E)風ではけっして七十七には書かず、必ず七十七一に作る。だからもしシナで喜寿という者があるとすれば、七十八でなければならない。同様に八十八を米寿という。昔はまあこれくらいでよかったのだが、今ややたらに長生きするようになったため、さらに卆寿、白寿なる者まで出てきた。九十を合すれば
卆であるから、九十を卆寿というというのだが、これはちとひどい。卆は卒の俗字である。卒とは終であり盡であり死である。九十老人に早く死んでしまえというにひとしい。どこの誰だ、卆寿なんて言い出したバカは。白寿は、百から一をとると白だから
九十九ということである。新中国の簡化字を用いるならば、九十八は寿、は九十八である。もし雑とするならば、九十八佳としてもよい。シナには古くから佳字を形の似たる所から隹に作る例は少なからずあり、相字や字謎には隹を佳に扣することがある。
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書名や人名にもこれがある。豊原統秋の『體源抄』は、その書名に豊原の姓をかくしており、松平定信の『宇下人言』は合して定信になる。吉田松陰の別号・二十一回猛士の二十一回は吉田の二字を組換えたものである。弁慶はなぜ武蔵坊と名乗ったか。弁の字を分解すると片假名のムサになる。そこから思いついて武蔵坊と稱した。今引越しをはじめた萬世橋のたもとにあった交通博物館に、我が邦初の蒸汽機関車であるベンケイ號がおかれており、その車體に辨慶號と書いてあったが、これは誤りである。ベンケイのベンは弁でなければならぬ。なまじ知った振りをして辨に作ったりしてはいけない。この話ウソと思う人もいるだろうから、もう一つ例を擧げておこう。美作國宮本村に宮本弁之助という手のつけられない亂妨者の小僧がいた。十三歳の時、兵法修行のため廻国していた有馬喜兵衛なる者と立合い、これを撃ち殺した。我もまた諸國を漫遊して兵法者としての名を揚げんと志したが、宮本弁之助ではどうも強そうに聞こえない。そこで武蔵は考えた(まだ武蔵になってないけど)。弁之助の弁の字から武蔵と稱したのである。考證學派の標語に、孤證は證とせず、というが、ここに證が二つになったのだから、皆の衆、この話を信ずるがよいぞ。
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*注:(D) 拆字=一字を偏旁冠脚など、いくつもの字にわけること
(E) ここでは作者の意向で中国のことを“シナ”と呼んでいます。
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