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説文解字の序に、などというと、もうそれだけで怖気をふるって先を読む気がしなくなるという人もあるかもしれないが、まあそう早まりめさるな。それほどむつかしいことを言おうとするのではないから。
「蒼頡の始めて書を作るや、盖し類に依り形に象る。故に之を文を謂ふ。其の後形聲相益す。即ち之を字と謂ふ。文とは物象の本、字とは孳乳して浸く多きを言ふなり。竹帛に著す、之を書と謂ふ。書とは如なり」といふ。
文字と一くくりにいうが、実は文と字とは少しちがう者なのである。文とは物象の本であるから単体であり、その文が二つまたはそれ以上に組合わされた合体となって字となる(A)。それ故に「説文解字」なのである。つまり“文”は単体であるからそれ以下に分けることができないから「説」くのであり、“字”は合体であるから、その構成要素であるいくつかの文に分「解」することができるというわけである。ついでに言うと、その文字を竹帛に著した者が「書」である。だからいくら屁理屈をこねようと、文字を書いた者でなければ「書」ではないということになる。 |
さてそれでは「文字」とはいかなる者ぞというに、これは必ず形・音・義の三つの者を具している。これが假名やアルファベットなどの形と音とのみの、ただの表音記號と際立って異なるところである。さらにまた文字、特に字は合体である。信は人言であり、偽は人為である。假名の“い”と“ろ”とを合わせたり、またアルファベットの“A”と“B”とを合わせたら、それぞれ別の假名やアルファベットができるかというと、そういうわけにはゆかぬ。そこでそのような文字を合成または分解して別の文字を作り、それに文字が本来有している義を考え合わせ、本の文字とは全く別の解釋を与える、つまり別解をすることによって、これを豫言、占卜、暗號、嘲謔(B)等に用い、さらには謎語などの遊戯ともなり、また諧音、藏頭、歇後(C)などを利用した言語遊戯にまで至るのである。漢字の功用、何ぞ其れ廣く且つ大なるや。もう一つついでに言うと、「文字」とは漢字のことなのである。
この風は漢字を用いる我が邦にも及んだ。我が邦に於ては文字の合成分解に平假名、片假名の形まで利用するという融通自在のやり方をしている。萬葉集の戯訓に“山上復有山”を「出」として用いた例をはじめ、歌に於ても「むべ山風(嵐)」、「木毎(梅)に咲く花」などもあり、やがては徒然草第六十二段の「延政門院いときなくおはしましける時院へ参る人に御言つてとて申させ給ひける御歌ふたつ文字牛の角文字直くな文字歪み文字とそ君は覺ゆる戀しく思ひ参らせ給ふとなり」と、假名を用いた字謎まで出て来たのであった。ふたつ文字は「こ」、牛の角文字は「ひ」、舊釋は「い」とするが、それでは假名遣いが合わぬ。「ひ」の両側に垂れたのが角、中間のまるくふくらんだ部分は牛の顔である。直ぐな文字は「し」、歪み文字は「く」である。これがやがては、「くノ一(女)」「ロハ(只)」「タニウド(谷人つまり俗)」という漢字、片假名、平假名をまぜた者にまで至るのである。 |
*注:(A) 文は「日・月」、字は「明」などのことをいう
(B) 嘲謔(ちょうぎゃく)=からかい
(C) 歇後(けつご)=ある語句の末字を省略して言わず、逆にそれを強調すること
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