高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
文字のいずまい
vol.11

歴史が重なるウィーンの表記体系
臼田捷治(デザインジャーナリスト)
  界に冠たる芸術の都、ウィーンにこの夏初めて行ってきた。ウィーンはご存知の方も多いと思うが、世界の大都市の中で、例外的に人口が減少してきた街。ハプスブルグ王朝の崩壊により、二十世紀の初めに頂点を迎えた人口が激減して現在に至っている。そのため、ウィーンは東京やニューヨークのような巨大都市にはない、親密なスケール感がある。
 際に歩いてみるとそれが分かる。パリが思ったより小さい町だということはよく言われるが、ウィーンはそれ以上。歩いてこそ面白さを体感できる街だ。そして、ちょっとした高台にある宮殿などに行くと、街を包む緑の丘陵がすぐ間近に見えて驚いた。短い滞在だったので、実際にその中を散策したわけではないが、ウィーンは森の中にある都市だと称されることが納得できる。

分離派様式を伝えるエンゲル薬局と独特の感性が光る店名デザイン
(塗装職人が修復中だった)

  っと驚くのは、輝かしい歴史を物語る過去の建築様式に町のあちこちで出会えること。ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココ……。さらに、フランスを中心に華麗な花を開いたアール・ヌーヴォーの動向とも関連づけられる、十九世紀末から古都を新しい潮流で彩った、いわゆる「ウィーン分離派」の建築群があり、二十世紀後半に世界的な流行を見た「ポストモダン」と呼ばれる斬新な折衷スタイルに基づく建築もいくつか見られる。あたかも、過去の建築様式の博覧会場のような観をこの古都は呈している。
 ィーン分離派は過去の芸術様式からの「分離(セセッション)」をめざした芸術運動。建築、美術、工芸、グラフィックデザインにまたがる総合的な取り組みが展開され、同時代の日本にも多大の影響を残した。いや、分離派自体が日本美術を糧としている。一八七三年に開かれたウィーン万国博に出品された日本の伝統工芸品が、新しい方向性を模索していた運動の担い手たちに新鮮な衝撃を与えたのである。なお、運動のテーゼ、「時代には時代の芸術を、芸術には芸術の自由を」は、二十世紀の新興芸術運動(アヴァンギャルド)を予告するものとなった。
 ィーン分離派の建物は、百年前後は経過しているにもかかわらず、貴重な遺産として大切にされていることは、旧東京都庁舎のような戦後の名建築でさえ簡単に毀すことを恥じない日本とは大違いである。実際、次代に伝えるために現在修復中の建物がじつに多かった。分離派建築の傑作で西郊にある「アム・シュタインホーフ教会」(オットー・ヴァーグナー設計)は全面改修のため閉鎖中ということで諦めざるをえなかった。同じヴァーグナーによる、ガラスの天井から光が降り注ぐ内部空間をもち、モダニズムを先駆ける「郵便貯金局」は、見学こそできたが、外壁と内部空間を修復中だった。同時代の建築家で、装飾を徹底して排したことから運動とは一線を画したアドルフ・ロース設計の「ロース・ハウス」も外側に足場が組まれていた。
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