高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印
文字のいずまい
vol.6

ガリ版文字よ、永遠なれ!
臼田捷治(デザインジャーナリスト)
 特のインクのにおいとざらざらとした紙の触感……。近代日本の文化を支え、「ガリ版」の愛称で親しまれてきた謄写版(孔版印刷の一種)印刷。その軌跡を振り返る「本の街のガリ版展 一八九四〜二〇〇四」が、さる十月十三日から十九日まで神田小川町にある東京古書会館で開かれた(主催・ガリ版ネットワーク)。堀井新治郎親子によって、一八九四年に神田鍛冶町において謄写版が生誕してから百十年の節目を迎えたことを記念する催し。「神田という学校と本の街は、謄写印刷を育てた街ともいえる」という趣旨に沿って、同じ神田が展示会場に選ばれた。
 治、大正、昭和と各時代につくられてきた印刷物や美術作品の展示にくわえ、「現代に生きる謄写版」としてラオスやモンゴルの教育現場で活用さている現況報告や、愛好者による実演が行われた。会場には、かつて謄写印刷に親しんだ中高年世代にとどまらず、デジタル・テクノロジーにたっぷりつかっている若い人たちの姿も目につき、世代を超える関心の高さがうかがえた。
 リ版を経験したことのある世代は何歳ぐらいまでであろうか? 二十代後半ぐらいの人なら、実際に制作に関わらなかったとしても、その印刷物を手にして見たという人がわずかながらいるのではないだろうか。
「本の街のガリ版展1894〜2004」展示資料目録表紙
  はいま六十代の前半であるが、小学生時代に文集であったと思うが、「ガリ切り」(ロウを引いた原紙をヤスリの上に置き、鉄筆で原紙を削って筆耕する)をするように担任からいわれて、同級生といっしょに放課後、暗くなるまで教室でがんばったことなどが真っ先に思い起こされる。小学校、中学校、高校と試験問題はほとんどがガリ版刷りだった。
 た、私は東京オリンピックのあった一九六四年前後のことであるが、東京での学生時代、謄写版印刷を専門とする小さな会社で何週間か働いたことがあった。日給が七百五十円。所在地は新宿区新小川町。総武線飯田橋駅から徒歩七〜八分の距離だった。常勤の二名の中年女性の書き手がいた。ほかに非常勤ではあるが、いつも何人かのプロが出入りしていた。それに、いかにも屈強な青年が刷り(原紙を印刷機にセットし、インクをつけたローラーを転がしながら印刷する)専門で勤めていた。ほかにタイピストとして若い女性スタッフがふたりいて、カチカチとタイプを打っていた。社長はまだ三十代と思われたが、営業を受け持ち、バイクでお得意先を飛び回っていた。
 ルバイト先での私たちの仕事は校正だった。主要なクライアントであった大手製鉄会社の会計報告の類が多く、無味乾燥な数字がズラッと並んでいたが、原簿と違いがないかチェックするのが主な作業。そうした印刷物は、今であればパソコン上で簡単に作成できるものだったが、当時はもちろんワープロもなく、また、普及が進んでいたとはいえ、タイプライターでは罫組みと数字が入り組む書類の作成は無理だった。ガリ版は簡便性、迅速性において断然まさっていた。
 
次の頁へ

© Copyright Geijutsu Shinbunsha.All rights reserved.