いったんは徐冰の術中にはまってしまう一因は、漢字の数の膨大さにある。哲学者の石田秀実氏が『気のコスモロジー』(岩波書店)で指摘しているように、象形文字が元となっている漢字には、「流動変化し続ける自然世界の現実」が前提にあり、「事物の変化に即してそれを図像化しながら、限りなく増殖」してきたのである。そして、いわゆる「会意」と「形声」という構成原理に「偏」と「旁」の方法を交錯させて、新しい意味を帯びる文字を次々と派生し、自在に文字数を増やしてきた。それは漢字独特の自己増殖機能といってよいだろう。
実際、漢字の数は五万五千字といわれる。一生かかっても覚えられない数である。だから徐冰の作品に接すると、つい、もしかするとこんな漢字もあったのかと錯覚に陥ってしまう。
西夏文字の解読で知られる世界的な文字学者である西田龍雄博士は、遼(十世紀〜十二世紀中ごろ)の契丹文字とそれを継承した金(十二世紀〜十三世紀中ごろ)の女真文字、西夏(十一〜十三世紀)の西夏文字を、漢字を模倣してつくられた「擬似漢字」として括っている。いずれも中国の北方周辺にあって、国家の滅亡とともに姿を消した文字である。もとより実際に使用された文字ではあるが、徐冰の「漢字もどき」を含めて、これらはどこか共通したにおいを漂わしていることが不思議。漢字の強烈な磁力のようなものが背後に感じられてならない。
さて、偽字(あるいは擬似漢字)と誤字は、前者が意識的につくられたものであるのにたいして、後者は字画を知らないために生まれるという違いがある。
その誤字をいくつも集めて構成した雑誌デザインに、グラフィックデザイナー杉浦康平氏による『遊』一〇〇一号(特集「相似律」、一九七八年 写真3)がある。「遊」の字が三十三個表紙を飾っているが、よく見るとすべて誤字。でも「遊」字に見えてしまうのが面妖だ。ここでは、誤字らしく書いてもらったものを集めたものといったほうが正確かもしれないが、漢字表記固有のゆらぎと、漢字の、ある種の懐の深さが浮き彫りになっており、着眼の鋭さが光る。
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