その⑩ “厄介(やっかい)な” 雪岱の女人願望


 星川清司『小村雪岱』を手にする。雪岱世界を(いとお)しむ人で、この本を手に取らない人はいないだろう。
 この稿のために、久しぶりに、この書を目にしたら、すでに、かなりの量のフセンが貼られ、ページの天から、不思議な若芽のように萌え出している。我れ知らず、しばらくそのフセンをながめていたが、思いついて、物好きにも、その数をかぞえて見ることにした。
 一回数えたが、101ヶ所に貼られていた。うち、とくに重要と思われるところのフセンにはサインペンで赤丸印がつけてあり、これが15ヶ所。(こんな、なんの意味もない、子供っぽい作業が、僕には楽しい。不要不急の書き物は、自分の妙な癖とか所作とかに自ら出会い、あきれたり、苦笑することと思われる)。
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こんなにフセンを貼っては意味がない──という思いも、しょっちゅう。
 

 そんなことはどうでもいい、星川清司の『小村雪岱』は、つぎのような書き出しから語りはじめられる。
 それは日本橋檜物町(ひものちょう)からはじまったようである。
 画学生はこの町にとけこんでいた。
 移り住んで五年になる。朝な夕な界隈をあるきまわるのを欠かさず日課のようにしているうち、われしらず町の情趣が身に沁みついていた。
 檜物町──手元の『角川日本地名大辞典13東京』で「檜物町」の項をチェック、一部のみ転記する。
「ひものちょう 檜物町〈中央区〉」
明治5年の戸数233・人口1,030。同11年日本橋区に所属。昭和3年呉服橋3丁目・(とおり)3丁目に編入。現行の八重洲(やえす)1丁目・日本橋3丁目のうち。
 この檜物町、星川の文では、こう紹介される。
 それほど広くもない土地に、たくさんの置屋があり、たくさんの料亭や茶室が密集している。密集はしているけれど、外見はのどかに黒板堀がならんで、どこの料亭でも二つや三つの蔵があって、色町だから柳の大きな木が生い茂っていたりする。
 そんな色町に、埼玉県川越生まれの雪岱・小村泰助は十六歳のとき、神田神保町からその叔母の世話で、書生として書道家の家に移り住んで五年、雪岱二十一歳、東京美術学校(現・東京芸大)日本画専科の画学生となっていた。憧憬の人は泉鏡花。
 その鏡花にひょんな縁で知り合い、これまた、何かの縁か、それも『日本橋』と題された鏡花の作品の装丁をまかされることとなる。
 きらめく星を仰ぎ見るごとく憧れた、泉鏡花に託されて泉鏡花作品の装丁をはじめて担うこととなる。
 このときの雪岱の喜びと、おののき、いかばかりか。大正三年、雪岱二十八歳。(『日本橋』(千章館刊)の書影はその⑥で紹介)
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鏡花『日本橋』の雪岱による装丁。雪岱、ゆかりの深い日本橋をテーマとした装丁の仕事が舞い込んだ。しかも鏡花作品。鏡花先生、粋なはからいをする。これは『日本橋』の見返し。
 

 星川の文を読もう。
 ふしぎな心もちだった。これこそ、めぐりあわせといわなくて何んだろう。
 常日ごろ夕映えを眺めにいった並び蔵を表紙絵に描いた。
 出舟入舟を描いた。
 蔵の窓からそっとのぞいた隣家の青柳、その座敷に置いてあった三味線と鼓。
 駒下駄をならして路地の細道に立ちあらわれる芸者が仰ぐ星空と、中天にかかる白い月。(中略)
 「日本橋」の出会い以来、雪岱えがく絵は、鏡花えがく小説同様に、すべて羅曼主義の色彩を深く帯びて、いうにいわれぬ哀愁のはかなさが底に流れ、見るひとの心をうち、他面けんらんとして華やぎ、美しさは比類もなかった。

 言い忘れていたが、雪岱の名は、鏡花と出会ってまもなく鏡花によってつけられた号である。文字どおり鏡花は雪岱のゴッドファーザー。
 星川雪岱本を、しばらくは脇に置いて、当の雪岱自身の著にあたろう。もちろん『日本橋檜物町』。
 ここでは、戦前(昭和十七年)高見澤木版社版の元本ではなく、入手しやすい中公文庫と新編集の平凡社ライブラリーによりたい。(二著とも雪岱による本文の内容、構成は元本とまったく同様)
 雪岱による、生涯、ただ一冊の随筆集『日本橋檜物町』で書き残された文章は、かつての東京の町の面影を記したもの、泉鏡花をはじめ忘れ得ぬ人々に関わる話、挿画のモデル・理想の人、雪岱が担った舞台装置や役者のことなどが書きとめられているが、ここでは主に、挿画関連と理想のモデルに関わる文章に注目したい。
 舞台装置にも心血、情熱を注いだ雪岱だが(この仕事によって彼の生命はかなり消耗させられたのではないかと推測する)、一般には、雪岱といえばやはり、「おせん」であり「お伝地獄」であり、また、可憐な女人たちを描いた団扇絵や、「春告鳥」や「雪兎」や「見立寒山拾得」の絹本著色作品と、これらによる後の復刻木版刷り作品等だろうから。
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雪岱による歌舞伎座(昭和7年)の舞台装置・岡本綺堂作『東京の昔話』隅田川の景。
 

 雪岱の、やや特異な(?)の理想の女人のタイプ、また挿画のモデルに関して、自身が語る文章に「阿修羅王に似た女」は、このように書き出される。
 私のずっと前に、何かの雑誌にぽんた( ・・・)の顔がきれいだと書いたことを覚えている。全くあの顔は、今でも美しい顔だと思っている。然し、それかと云って、あの顔が私の好みだと早合点してもらっては、大いに困る。
という。
 ちなみに「ぽんた」とは、明治の風俗、文化に親しむ人なら合点するだろうが、美形で、売れっ妓となった明治の新橋の芸妓「ぽん太」。のちに豪商の鹿島清兵衛に身請され妻となった谷田恵津(ゑつ)である。
 鹿島清兵衛は、これもまたよく知られるように写真撮影を趣味とし、ぽん太をモデルとしてるうちに親しくなり、家業や家庭を捨て、ぽん太を妻として迎え入れている。今日のわれわれ物好きがぽん太の面影を知ることができるのは、芸妓時代のぽん太の絵葉書や、鹿島清兵衛による肖像写真によるからである。
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明治の人気芸妓「ぽんた」。
 

 横道にそれました。雪岱の文に戻ろう。
「あの顔が私の好みの顔だと早合点して貰っては大いに困る」と、
少々、強い口調でのべたすぐあとに、
 ぽんたに限らず、凡ての生きている女、または、かつて生きていた女(、、、、、、、、、 、、、 、、、、、、、、、)は、
私の趣向にはぴったりと来ないのです。(傍点、筆者。以下同様)
と言い切っている。そして、能楽の面や、仏像、ことに奈良・興福寺の阿修羅王に心を寄せていることを告げている。
 雪岱、学生時代に、ふとしたことで出会った女人のことが語られる。ここでも、雪岱は自らの趣向というか性癖を開陳する。その言葉は──「学生で、しかも現身(あらみ) の女を毛嫌いしていた私です」とある。「毛嫌い」とはキツイ表現ではないですか。
 しかし、若き雪岱は、ある夜、龍泉寺の町を散歩しているときに、一五、六の“お酌”(半玉)と出会う。
 その瞬間、私は「おや」と思った
 これは、確かにどこかで一度見たことのある顔だとそのとき思ったのですが、さて、どこで逢った娘だか、そこをはっきりと思い出せない。
それが、すぐあとに思い出したのは、興福寺の、あの阿修羅王の顔だったというのである。雪岱いわく、その阿修羅王は、
こわい顔じゃなくて、今生きているもの、また過去に生きていた、世界中のどの女よりも美しく好ましい姿であるのです。
と、雪岱の理想の女人像を、ここで、くり返し語っている。
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奈良・興福寺の「阿修羅」の正面の愁いに満ちた、美しい顔。
 

 「挿絵のモデル」(個性なき女性を描いて)──の文章を見てみたい。雪岱の文では、一番よく引かれる文だろう。彼の挿画作品とそのモデルのことが語られているからだ。
 「君の絵になりそうな美人がいるから会ってみないか」と誘われることがよくあるが、と前フリしたあとで雪岱は「世の中に美人は多いでしょう、しかし──」とし、「殊に私の場合は少々厄介な註文がつきます。」と、なるほど、少々厄介そうな文がつづく。
 私が好んで描きたいと思う女は、その女が私の内部にあるもの、何といいますか、一口にいえば私の心象です。この心象に似通ったものを持っている女です。
と“心象”、心の中の像に「似通った」女性でなければならないという。
 生身の女人ではなく、あらかじめ雪岱の心の中にある、心に棲む女性像でなければならないとすれば、描かれる女が「個性なき女性」となるのは当然のことでしょう。雪岱にとって、余計な“個性”など不要なだけなのだろうから。
 また、この章では、こうも語る。
私は幼いころ見た、ある時ある場合の母の顔が瞼の裏に残って忘れられません。口ではいい現わせない憧れに似た懐かしさを感じて、これが私の好きな女の顔の一つなのです。
   (母の顔かぁ。谷崎潤一郎の幼少時代の思い出をつづった文章にも、母に対する憧れの記があった。それは明治の時代の母子関係特有のものなのだろうか。今日も、そのような母親憧憬の子は存在するのだろうか。)
 これは、余計。雪岱はつづけて──そして、母の顔、人形の顔、国貞(春信ではなくて)の顔、仏像など「それに似通った人をそれぞれ発見して、これまでにいろいろな女の絵に随分使いました」という。
 くりかえすが、生身の女ではなく、芯であり真は、あらかじめ雪岱の心の中にある女性の像なのである。現実の女性は、その、“写し”にすぎない。
 そして、この章の一文は、こうして閉じられる。
私は個性のない表情のなかにかすかな情感を現わしたいのです。それも人間が笑ったり泣いたりするのではなく(、、、、、、、、、、、、、、、、、、)、仏様や人形が泣いたり、笑ったりするかすかな趣きを浮かび出させたいのです。これが私の念願です。
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春信の浮世絵には見られない雪岱女人のふくよかな肉感性。「お伝」は雪岱の理想の女性の一典型か。ここでも、「おせん」同様、屏風がドラマを効果的に演出する。(昭和10年 平凡社刊)『名作挿画全集(巻一)』より。
 

 なんという“厄介”なロマンチズムだろう。ここまで記してきて、ぼくは改めて、一冊の文庫に収録されている雪岱の作品を注意深く見ることにする。
 なるほど、雪岱描く女人の姿、表情は、ほとんどが類型的というか、似たりよったりだが──個性がない、とは思われない。バリエーションなどに配慮することのない、雪岱ならではの、譲ることのできない“心象”、確固たる個性が“共通して”あるのではないだろうか。
 雪岱は、じつに(したた)かな表現者であった。

 次の回では、雪岱の思いのこもった、東京の面影を記した文と、再び星川雪岱本に戻り、また他の雪岱関連文にサラッと挨拶をして、次の美術家の随筆に移りたい。