2
 ちょうど緑道のなかほどまで来たとき、同じクラスの京平が、むこうからやってくるのに気がついた。一度、帰宅したらしく、ランドセルのかわりに、黒くふくらんだリュックサックを背負っている。

 二人は遠くからちらちらと互いを意識しながら近づいて、手を伸ばせば相手に触れるくらいまで来たとき、初めて気づいた、というように、「おう」と言った。

 それきり、会話が続かない。変な間があいてから、「どこ行くの」と京平が聞いた。

 鍵がなくて家へ入れないことを、なんだか恥ずかしくて言い出せない。 「いやちょっと」とにごしてしまう。

 いつか授業公開の日に見た、京平のお母さんは、長い髪の毛をくるくるっとカールさせ、芸能人のように華やかだった。おねえちゃんもいて、もう卒業しちゃったけど、結構美人なんだ。お父さんが何をしているのかは知らないけれど、京平のまわりには、いつも余裕のようなものが漂っており、それが自分には欠けていることを、タイボクは自分でも、よくわかっていた。

 京平の口許からは、肉まんのような匂いが漂ってくる。羨むより早くおなかが鳴った。緑道の水でも飲むか、と考えながら、
「おまえは、どこ行くの」と返してみる。

「ジュク」とすべなく京平が言った。黒いメガネをかけている。メガネの奥の目が小さい。

「塾ってどこ」
「すぐそこだよ。大通りに出る手前の路地に、山田って個人塾があるんだ。爺さんが教えてる」

 そう言いながらも京平は、目指す方向へ、ぐんぐんと歩いていく。つられてタイボクも歩き出す。

「タイボク、おまえ、逆方向じゃねえの」
「いいんだ。途中までいく」

 メガネをとると案外、イケメンで、女の子たちからも人気のある京平は、しかし軟弱系で、跳び箱六段が飛べないから、タイボクはココロのなかで、どーしよーもねえやつ、と日頃は思っている。だが今日は、なんとなくまだ、くっついていたい。

「塾って面白い?」
「まあまあかな。面倒でもあるよ」
「宿題とか出るのか?」
「ああ、ときどきは」
「学校とどっちがいい?」
「どっちもやだよー。でも、塾のほうがましかな」

 へー。そうなのか。口には出さずに心のなかで言う。ちょっとうらやましい。タイボクは学校が大嫌いだ。そしてその大嫌いな場所以外、取り敢えず、行くところはない。

「キョウヘイ、中学受験するのか?」
「ああ。親が受けろっていうから。おまえは」
「おれは地元だよ。だいたい、今からじゃ、受験間に合わない」

 金ないし。と、心のなかで付け加える。

「山田は入塾テストないから、だれでも入れるよ。大手と違うのは、爺さん先生一人でやってるってところ、少人数ってところ、それから、毎回、作文書かされるところかな。ま、変わった塾だよ。変人塾。一緒に行かね?」
「な、な、なんで?」

 いきなり誘われて、タイボクは驚いた。でも内心は、そんなこと、ないから、かなり、うれしい。
「だって、タイボク、作文得意じゃん」

 得意じゃない。ただ、タイボクは、いつも書いているうちに、書こうと思っていたことが曲がってしまって、まったく違うことを書いてしまうんだけれど、そのこと自体が、けっこう面白く、そしてどうやら先生も、そういうタイボクの作文を面白いと思ってくれていて、一度なんか、みんなの前で、ほめてくれた。「タイボクの文章はいいぞ、面白いぞ」と。

 褒められることなど、めったにないタイボクは、自分の中が、いきなり、ビカッと光で照らされたようで、得意だったが恥ずかしくもあった。このことはまだ、父親には言っていない。

「受験しないのに、塾は無駄だろ」
「まあ、そういう考えもありますね」京平はいきなり、大人のように答え、「受験しないやつも来てますけどね」と言った。
「えっ、いいの。受けなくても、山田に入れるの」
 そう。そんな塾もあるのだ。
「ああ。自由さ。地元へ行くやつも来てるよ」

 京平はメガネの端を、人差し指の甲で、ついっとあげた。タイボクはその仕草を、気取ってるって思うが、女どもは、素敵って言う。バレンタインの季節なんかには、京平の机の物入れのところとかうわばきの靴入れのところなんかに、ぎゅうぎゅうプレゼントのチョコがつまっているので有名で、一度なんか、机の奥に入れたままのチョコを、京平が長く忘れていて、それが教室の暖房でとけて、ノートにくっついて、べたべたになって、そのチョコをあげた女の子が泣いちゃって、京平は困ったなあという顔をしていて、それがちょっと自慢げで、タイボクは心のなかで、けっ、ナルシーと思ったのだった。

 そのとき、タイボクがもらったチョコは、たったの一個。名前が書いてなかったから、誰がくれたのかも、わからなかった。

 行かね? と誘われ、うれしくなったものの、タイボクは決められずに黙っていた。

 京平は、いきなり左腕をつきだし、手首につけた、かっこいい腕時計をわざとらしく眺めると、
「やべっ、おくれる」
 タイボクを置き去りにして、そのまま走っていってしまった。

 タイボクはぼんやりと、その後ろ姿を目で追った。

 その山田塾は、どれくらいお金がかかるのだろう。山田先生というのは、どんな先生なのか。行ってみたい、のぞいてみたい、と思ったけれど、勉強は嫌いだし、どうせ親に話しても、金はないと言われるだけだ。

 そこまで来たとき、緑道公園は途切れ、あたりは段々と薄暗くなってきた。ポケットのなかにあるチョコバーが、なんだかさっきより、重く感じられる。

 心細いタイボクが、考えた行き先はひとつ。それは卒業した保育園だった。

 ことぶき保育園には世話になった。卒業したあと、小学生になっても、タイボクはよく、ふらっと立ち寄った。ちょうど、保育園が、小学校と自宅のまんなかにあることもあって、窓から園長先生や顔見知りの先生方の顔が見えると、用事がなくても顔をだす。

 タイボクくん、元気でやってる? 先生方は、面倒がらずに、そのたびタイボクに声をかけてくれた。ただその声が聞きたかった。自分より小さい子たちを見ると、なぜ、こんな小さいのだろうと、当たり前のことが不思議でならなかった。そうして大きくなってしまった自分が悲しく、身の置き所がないように感じた。

 低学年のころ、今日みたいに家に入れなくて、保育園から親に電話をかけさせてもらったことがある。そのころ、携帯電話はまだ持っていなかった。母親も父親も、働いていて、しかもコミュニケーションがうまくとれていなかったから、今日は早く帰れるからと、朝、言って出かけたはずの母親が、六時をすぎても帰ってこなかったり、父親が戻っているはずの日に、やっぱり誰もいなかったりして、タイボクはそのたびに行き場を失った。

 こういうことがあったとき、父親と母親は、必ず言い合いになった。「言ったでしょ」「聞かなかった」「言ったはずよ」「いや、知らない」。

 今も思い出すと、二人の争う声が蘇ってくる。そんなことがたびたびあって、ある日、母親は出ていった。ママ、とタイボクはその人を呼んでいた。ママは今、どうしているのだろう。パパのことをタイボクは今、お父さんと呼んでいる。もし、「ママ」があのまま、ずっとそばにいてくれたら、タイボクはそのひとを、「おかあさん」と呼んだだろうか。そんな無駄なようなことを考えていると、失ったのは、一人の母なのに、「ママ」と「おかあさん」の、二人の母を失ったような気がして、タイボクはますます心が沈んでいく。

 じぐざぐと、わざと時間をかけて、道を歩く。

「タイボクくん、いま、帰り?」

 ふりかえると、京平のおねえちゃんがいる。さっき、京平と別れたばかり。今日はやけに野村姉弟と縁がある。

 むかしはもっと痩せていたのに、中学校に入ってから、美香ちゃんはずんずん太りだした。美人は美人といってもいいが、ずいぶん太めの美人になった。

 どうしたの? こんな時間に。美香ちゃんのその問いに誘われ、タイボクは、まるで犯罪を告白するみたいに、実は……と自分の困った状況を、美香ちゃんにあらいざらい、話してしまった。昔から美香ちゃんには、何を言っても受け止めてくれる、おおらかな雰因気がある。弟の京平には、まるでない部分だ。おねえちゃんっていいなあとタイボクはうらやましい。

 美香ちゃんは、なーんだ、という顔になって、「なら、まず、おかあさんかおとうさんに電話してみなよ。携帯、使っていいよ」と 軽い調子で自分の携帯を差し出した。

「おかあさん」はいないが、美香ちゃんは事情を知らない。そして「おとうさん」のほうは、命にかかわるような時を除いて仕事中に電話をかけてくるなといつも言っている。今がその、かかわるときであるかどうか。

 タイボクの判断は、NO.だった。メールならいいよとお父さんは言った。けれど、そのメールアドレスを覚えていない。切り株のように黙っていると、
「おとうさんの電話、何番? かけてあげるよ」

 美香ちゃんはやさしい。

「虫殺し、嫁に来るなよ」
「えっ、なんだって?」
「ムシゴロシヨメニクルナヨ」

 番号の数字をごろあわせにした暗号だ。
            
→3へ続く