嫌だなあと思った。できれば話したくない。それでなくとも、このごろ父は、なんだかやけに怒りっぽいのだ。たぶん、仕事がうまくいってないんじゃないかと思う。タイボクは恐る恐る、数字を押した。
「どうした?」
父の声が聞こえた。
「鍵を忘れて家に入れない」
「ばかだなおまえ」
吐き捨てるような、どすの効いた声。
「ごめんなさい」
「保育園でも図書館でも、どこでもいいから、安全なとこ、見つけて、そこにぎりぎりまでいろ。なるべく早く帰る。九時ころになるかもしれない」
電話はそこで、ぶつっと切れた。
「どうだった? お父さんすぐに帰ってきてくれるって?」
美香ちゃんに携帯を渡しながら、その質問には答えず、携帯を貸してくれたことに対して「ありがとう」と言う。
「よかったぁ、やっぱりかけてよかったね」
美香ちゃんの勘違いが現実だったらどんなにいいか。
「じゃあね! 気をつけて帰るのよ」
「うん」
美香ちゃんと別れ、とぼとぼと歩きながら、それでも、図書館という言葉が、お父さんの口から出てきたことは、ナイスだったとタイボクは思った。考えもしなかった。思い出しもしなかった。そうだ、図書館があった。
読書が好きだったお母さんがいなくなってから、図書館とはすっかり疎遠になってしまったけれど、タイボクはある時期まで、よく、図書館に通ったものだった。すぐ近くにある図書館は、気軽に通えるものの、小さくて蔵書も少なく、夜も七時には閉まってしまう。けれど、少し歩いたところにある中央図書館だと、蔵書の数も格段に多く、平日は、夜になっても、午後八時までは開いていた。
つい先程まで、優しい保母さんたちを頼ろうと考えていた自分が、なんだかきゅうに赤ん坊のような気がして恥ずかしかった。タイボクは思った。保育園はもはや頼るところではない。チビたちに頼られるところだ。
「難しい道と簡単な道とがあるとするでしょう、タイボクはどっちを行く?」
出ていった母が、いや、ママが――タイボクはママと母を呼んでいた――むかし、タイボクにたずねた質問だ。そのとき、何と答えたのだったか、不思議なことに、思い出せない。思い出せないのは、いまだにその質問に答えようとして、答え切れていないからだと思う。
難しい道など行きたくはなかった。いつだって誰だって、簡単に見えるほうを選ぶのではないだろうか。そしてそのことは、そんなにいけないことなのだろうか。
ぐるぐると考えをめぐらせながら、タイボクは今、図書館に向かうこの道こそが、その難しい方の道なのではないか、とも感じていた。
あたりはだんだんと薄暗くなってきていた。公園のなかにある二階建ての図書館は、全体がかなり老朽化しているけれど、歴史を感じさせる古び方で、レンガ作りの外壁が、いい雰囲気をかもしだしている。窓の内から、あたたかい光が漏れてきていて、動かない本のまわりを静かに人が動いていた。
なかへ入ると、とたんに「図書館の匂い」がした。古い本の匂い。いろんな人の、いろんな指にめくられた、頁の匂い。一瞬、懐かしさを覚えるが、それを振り払ってすすむ。
一階の奥にある児童図書コーナーには、午後五時までという張り紙がしてあった。あと少しで終わりじゃないか。
タイボクは大人たちのいる二階に、あがることにした。
母とは幾度も一緒に来た事があるが、一人で来たのは初めてだ。こんなに広いフロアだったろうか。一人にならなければ見えないものがあるのかもしれない。誰かと一緒では、感じられない事柄があるのかもしれない。
本棚の前でたたずんでいる大人も、テーブルの上で本を読んでいる大人も、窓口のところで待っている大人も、気がつけばここでは、みんなが一人だった。そして誰もが自分の小さな世界を大事にして、タイボクのことなど、目にも入らない様子だった。
窓際のテーブルに空いた席を見つけると、タイボクはそこにランドセルをどさりとおろした。おろしたとたん、自分が背負っていたものが、どれほど重いものだったか、身をもって知った。
ノートや教科書、参考書の類は、まとまるとまるで岩石のような重さ。学校に置いておければと思うが、宿題があるから、そうもいかない。宿題、そう宿題だ。宿題をここで片付ければいい。その合理的なひらめきを、大人に言えば、反対する人はいないだろう。
ママもよく言っていた。やるべきことをやってしまったら、テレビを見ていいし、ゲームもしていいよ。つまり、やるべきことを先にやれ、ということだ。
ところがこれができないんだ。なぜなのかはタイボクにもわからない。頭ではじゅうぶん、わかる。けれどタイボクの手足は、それを拒否して、やるべき順番の終わりのほうから逆行する。
→4へ続く