黄変した午後の光が、あたりの樹木にさんさんと降り注いでいる。緑道公園の時計は、午後四時をさしていた。こっちにむかって歩いてくる、一人の、のっぽの小学生。両親は、彼が生まれたとき、タイボクという名前を彼につけた。タイボクとは、おおかたの人間が想像するように、漢字にすれば「大木」だが、友達が彼を呼ぶときの感じは、ちょっと違う。漢字じゃなくてカタカナだ。「ボク」じゃなくて、「タイ」のところにアクセントが来る。
背なかのランドセルが小さく見えるのは、タイボクの身体が、ここ一年で、ずいぶんと大きくなったから。といっても、縦方向にだけど。学校で一番背が高く、しかも痩せている。結構食べるが、太らない。タイボクを「高層ビル」とか、それの短縮形で「ビル」とか呼ぶやつもいるが、呼ばれても返事はしない。高層ビルなら、そこいらじゅうにある。ここは新宿のどまんなかだ。
彼はいま、絶望的な気分のなかにいた。いつもだったら、ランドセルの内ポケットにあるはずの財布と鍵。それが両方ともない。気付いたのは、ついさっき。学校を出て、緑道を通りぬけ、じゃあな、と友達と別れたあと、駅近くのコンビニに入り、ポテチを買おうとして、背負っていたランドセルを床におき、べろみたいなふたをおもむろにあけたとき。
あれっ。あるはずのものがない。
こういうとき、彼はまず、盗られたのかと思う。次に、どこかで落としたのかと自分を疑う。それからじっくり行動を思い返してみる。
昨日、遅くまで、ぐずぐずと漫画を読んでいたせいで、今朝は起きるのが遅くなった。父親に怒鳴られ、朝食も食べずに、タイボクはアパートを飛び出したのだったが、ドアを後ろ手に勢いよく閉めると、驚くような激しい音がたった。やべ、と思ったが、すでに遅い。怒鳴った親へのあてつけもあった。悪いのは自分とわかっているが、何かにあたらないことには、気持ちにおさまりがつかなかった。そしてそのまま学校へ。
というわけで、いつもなら、必ず確認する鍵とお金を、今朝に限って、忘れてしまったのだった。
父親はテレビの製作会社に務めていて、今日は帰りが遅い。いや、たいていの日が遅いのだ。家に入れさえすれば、お菓子があって、冷蔵庫には、父親がそれなりに揃えてくれた、あたためればいいだけのおかずもあるはず。録画してあったドラえもんやサッカーの試合だって観られるだろう。
けれど鍵がない。入れない。自分が永遠にこの世界から閉めだされてしまったような気がした。黒焦げのパンをかじったときのような、苦い味がこみあげてくる。それを「後悔」というのだと、タイボクはすでに知っている。
さっき、コンビニを出るとき、変な気持ちだった。手を伸ばせばつかめる距離に、いつも買うポテチのふくれた袋がいくつも並んでいた。たった二百円がないがために、見えているそれが手にはいらない。すごく、へんだな、とタイボクは思った。これはないよ。
自分が現実のなかにいる感じがしない。
自分が、というより、自分の手が、勝手に棚の商品を、取ってしまいそうで怖くなった。コンビニには、たいていのものがある。そこにいきさえすれば、いつだって、何かちょっとしたものを手に入れることができた。時には何も欲しいものがなくったって、店内を歩けば、一つくらいは欲しいものが見つかった。もっともそれは、お金を持っているという、最低条件があってのことだけれど。
タイボクは、金を持たずにコンビニへ行ったことがないので、コンビニにいるのに、物を手にいれられないという状況に、パニックになるような混乱を覚えた。
お金と物とを交換するのだと、習ったのは小さなガキのころだ。
わかっている。交換しない場合は、どろぼうになる。さすがにそれは、やってはいけない。けれど「物」の力は見たこともないほど圧倒的で、輝いていて、抗えないほど誘惑的だ。
いつだって、ここへ来れば、物たちはタイボクにあいそがよくて、にこにこと彼を迎えてくれた。その物たちが、お金を持たないだけで、死体みたいに冷酷になる。
オレは無力だとタイボクは思った。
指が動いた。オレの指が動いている、とタイボクは思った。目は冷静に店員の方を見ていた。
指は棚の、二段目にある、チョコバーの胴体を掴んだ。タイボクはそれをポケットに入れた。死角だった。誰も見てはいなかった。そのまま、店を出た。
心臓がばくばくと脈を打っていた。身体から飛び出そうなくらいに。
三年生のころまでは、タイボクにもまだ両親がいた。家に帰れば、ほとんどの日は、母親がおかえりと迎えてくれた。そんなことはむろん、はるか昔の話。思い出すようなことでもない。それでもときどきは、ちらっと考える。なぜ、すべてのものごとは変化するのか――と。
母親の姿が消えてしまってからしばらくして、玄関先に置いてあった、鉢植えのヴィオラの花が枯れた。鳥かごのカナリアが死んだ。手作りの餃子を食べることがなくなって、代わりに冷凍ものの餃子が、冷凍庫にぎっしりになり――それはそれで美味しかったし、父親は餃子を焼くのがけっこう上手かった――あるいはまた、近所の餃子屋へ父親が連れていってくれることもあった。男二人で食べる餃子は、うまいか、まずいか、と聞かれれば、決してまずくはないとタイボクは言うだろう。ただ、もくもくと食べ終わって、二人で店を出るとき、ちょっとさびしい。どうしてだか、理由はよくわからないけど。
変化といえば、少しずつ、家のなかが薄汚れてきて、たとえば窓なんかは、誰も磨かないから、気づいたときには空の青を映さなくなっていた。網戸なんかも埃だらけで、穴がふさがり一枚の壁になった。それを見た父親は、きたねーなと言った。言うだけで、それをそのまま放置した。もちろん、タイボクも、汚いと思う。が、今に至るまで、何もしていない。そして自転車は錆びた。
あるとき――それは去年のことで、だからタイボクが五年生になった年のことだが――、父親がようやく枯れた植木鉢を捨て、かわりにヒナギクの植木鉢を買ってきてくれた。
そしてタイボクに命じたのだ。
「毎日、水やれ、お前の仕事」
最初のころはよく忘れてしまった。そのたび父親に叱られた。ある日、水、やったら、くたっとしていた茎が、数分後には、すくっと立ち直り、面白いように元気になった。
タイボクは、目を見はった。おもしれえ。自分がなしたちょっとしたことで、目の前のものが変化する。それもいい方向へ。初めて植物に「水をやる」ということに、意識をとめた。そうして初めて、花を「育てる」ということを決心した。
毎日、花を見るようになった。花の顔色を窺うようになった。自分以外のなにものかに、心をかけたのは、初めてのことだった。すると水やりも、不思議なことに、前ほど面倒ではなくなってきた。
そういうタイボクを見て、父が、いろいろな鉢植えを買ってきてくれ、今、一階のアパート前は、タイボクの育てている植木鉢が、五、六、いや七個、並んでいる。
錆びた自転車にはそのまま乗っているし、相変わらず餃子は、手作りじゃないけれども、今、タイボクは父と二人の生活を、すっかり受け入れて暮らしている。